物語作家としての富野由悠季

富野由悠季がゲストだった『爆笑問題のススメ』を見た。去年「トップランナー」に出たときは驚いた。作家として自作をここまで「愛していない」ことを宣言する人間は珍しいと思ったからだ。過去の自作というものは、どうしても過去の自分の未熟であった点や、その時期の心理状態を示していて恥ずかしいものである。が、報酬をもらって作品=製品を作る「プロ」としては、考えにくい行為である。
ところが、逆にその態度はこの人間は嘘をつかないということを示し、物語の作家として彼を信頼できる根拠にもなるし、思い出すと嫌になるくらい、作品ごとに「想い」をぶつけていることの証左である。逆説的に富野由悠季という作家は信頼できる。
「ロボットアニメ」という制約の中でもいろんなことが出来ることを示したことは、「西部劇」というジャンルの中で様々な素晴らしい主題を提示してきたジョン・フォードなどを引き合いに出してもよいかと思う。もう誰も2度とジョン・フォードハワード・ホークスヒッチコックゴダールになれないのと同じように、手塚治虫宮崎駿もそして、この富野由悠季という作家にも誰もなれない。富野自身がいみじくも言ったように「ガンダムはクラシックになった」のである。
富野作品からは自分の作家性を示したい、作品を作ることを通して自己実現したいといった類の感情はもちろんあって当然なのだが、それだけではない、「この物語を今提示しなければならない」という使命感のようなものが感じられる。時代に異議申立てをしようとしている。彼は宮崎駿よりも教育者である。宮崎駿の作品というのは専ら「形式」で評価されるべきで、まさか『千と千尋の神隠し』を内容で評価するのは私は疑問である。主題的に宮崎駿は『風の谷のナウシカ』、またはそれ以前のテレビアニメのころと比べてほとんど変化はなく、彼のフィルモグラフィーは内容的には全て変奏曲であるといってもよい。富野の作品は形式では宮崎に及ばないのだが、内容は絶えず変化している。これを成長だとか成熟だとか安易な表現では語るべきではないが、とにかく時代とともに変化している。内容のために形式の成熟を放棄した手塚へのアンチテーゼとしての宮崎に対して、本人が認めるかどうかはわからないが、富野は手塚アニメの後継者である。彼は形式を偏重しすぎて内容が誤りでもそれが受け手に観取されていくことを危惧しているのだろう。どこかでそういう発言をしているのを見たような気がする。
さて、今回の番組をみた率直な感想は「丸くなったな」。あと、30分というのは短すぎる。もっと面白くてきわどい発言がカットされているのではないか?という陰謀妄想めいたものさえ考えてしまう。ガンダムの名台詞をとりあげて、それにコメントをつけるなどということは私は考えられなかった。聞き手が一般(=非信者)の人間であったことも大きく作用しているような気がする。太田がランバ・ラルの台詞から現在のアメリカの問題に通じる要素を掬ったのは鋭いと思った。(爆笑問題は面白くないし嫌いだが、太田は頭の切れる人間だということは思っていた。)富野がずっと言っていた、「MSは道具である」つまり武器は道具に過ぎないと言う問題は彼がガンダムを作り始めた時期から一向に進展を見せないどころかさらに悪化しているようにさえ思える。道具を制御しきれない人間というのはSFの大きなテーマの一つだが、進化する道具にあわせて人間も進化するというのはやはり難しいのではないだろうか。人間は道具を進化させてきた代わりに生物的な進化の道が失われてしまったのだと思う。生物的に進化するには道具を全て捨てなければならないと思う。