押井守『イノセンス』2004年/日本 を三番街シネマで(ネタバレあり)

圧倒的である。最初の2・3カットですでに興奮してしまい、多少冷静さを欠いてしまっているかもしれない。もう一回観に行くことになるだろう。
先日観た『紅い眼鏡』をきっかけに押井守という映画作家におけるアニメーションと実写とのズレについて考えていたが、予想通り、期待通り、この作品に現時点での帰結が出されている。アニメーションと実写との境界を限りなくぼやけさせてしまうこと、この作品には写真は一枚も使われていないはずで、すべてが人の手により、その延長であるコンピュータにより、「描かれている」ものである。にもかかわらず、それらはまさに目の前に「ある」のだ。「ある」ものそれはセルアニメ風のテイストを敢えて残した人物(これが本編前の予告編にも流れていた『アップルシード』との決定的な違いだろう)よりも、その「背景」があるのだ。それはもはや「背景」ではなく世界である。
人間は何故、自分の似姿を造ろうとするのか」この問いかけは直接押井守自身へと返されることとなるだろう。「何故、アニメーションを造ろうとするのか」。「アニメーション」という言葉には「命を与える」という原義があり、アニミズム、自然崇拝のことである。人間と人形との関係の構図は、世界と映画、世界とアニメ、実写とアニメ(世界と写真、世界と絵画、そして世界とそのイマージュ…)との関係の構図に相似していて、そうなると人間―サイボーグ―アンドロイド、そしてそれらの存在しているネット、仮想現実、夢をも含めた世界という『イノセンス』の作品世界の構図と符合する。『イノセンス』は押井守のアニメーション論であり、メタアニメである。「命」のある人形と無い人形の表象をきちんと描き分けること。命のない「画」に運動、変化をとおして命を与えるというアニメーションの本質に抗うように、命のないモノを、それとしたまま命を与えるという一種背信的な行為こそがアニメーションの一つの表象不可能性への兆戦である。
そしてここでもまた、ヤン・シュヴァンクマイエルの言葉を思い出す。「個性とは技術だ」。映画が最もはじめから持っていた要素、テクノロジー。これ以上やったらもはやアニメーションではなくなってしまうと思えるほどの圧倒的な映像。「アニメーションでやれることはすべてやった」という本人の言葉の真意は、アニメの彼岸を見た。これより先へ進と「デジタルの地平にすべての映画をアニメにする」という野望を達成する。そしてそれはもはやアニメではなくなる。という確信であろう。しかし、やはりそれはごく限られた意味でしかないと思うし、アニメにも表象不可能なものはあるに違いないと思う。やはり押井守にはアニメの地点から映画を脅かす存在でいて欲しいとは個人的には思う。
全作から続き(以前指摘した)、素子とバトーとの恋愛模様は今作に至っては、はっきりとそうと分かるように描かれている。素子を「失った」バトーはまさにやもめのような様相で、その行動パターンは荒巻部長のいうとおり「失踪する前の少佐をみているよう」である。それに「くだらねぇ」と言いながらも徐々に感化され台詞引用(検索)のし方まで似てくる新たな相棒トグサ。素子とバトーとの関係をなぞるようである。そして、やがて素子化していくバトーの前に人形遣い=素子が上から数多く降ってくる人形の群れの中に混じり、舞い降てくる。がバトーは「素子の方」へは行かなかった、「今幸福か?」とたずねるのみ。一方のトグサもかつてのバトーのように深く追っては行かないだろう。トグサにはあってバトーにはないもの、生身の身体、それ以上のもの、家族、とりわけ最後に登場した娘である。新しい相棒、トグサの素子との相違点――家族がいること、生身がかなり残っていること、そしてバトーと同性、男性であること――が物語の反復を拒否する。
「貴方がネットにアクセスするとき、私は必ず貴方の傍にいる」という素子の台詞の悲しさといったらない。素子はもはや実態を放棄し延長をまったく持たないものになっている。つまり無かつ無限な存在になった。これはどういうことなのか。私の認識ではやはりそれは、今私がいる世界で言うところの「死んだ」という状態に他ならない。素子の存在は科学的実現した、技術的な幽霊である。そして、「貴方の傍」に素子は「いる」のだが、貴方「だけ」の傍では理論的にはないのである。(素子は当然バトーの「想い」を把握しているはずだから)可能性としては同時に誰の傍にでもいることが可能なのである。もはや従来の恋愛感覚を以って彼女を独占したいなどということは夢のまた夢である。それはバトー自身もネットの生みに身を投じることでは不可能である。「∞+∞」は「2∞」ではなく、どこまでも「∞」しかない。
イノセンス』は『GOHST IN THE SHELL―攻殻機動隊』を反復しようとしつつも悉くそれに失敗、拒否、回避していく物語でもある。それは格段に(技術的に)バージョンアップしつつ反復されたオープニングクレジットからすでに分かる。
ともかく『イノセンス』は間違いなく傑作である。これから何度も観ることになるであろう。
文章を書くのに凄く時間がかかった。しかもまだ混乱している。バイトあけで観に行ってそのまま寝ていないのも少しはあるだろうが、自分の中でこの作品が未だ未整理であるからであろう。おそらくその理由の一つは私のアニメ作品への経験値の低さであろう。この作品はそれに比例してより深く、アニメによるアニメへの兆戦という部分が理解されうるだろう。そして逆に、「アニメ」のみの枠組みで観ることからも離れなくてはなるまい。