細田守『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』日本、2005年 @三宮東映劇場

細田守という名前に付随した様々な物語から、彼に高い期待を寄せていたことは否定できない。作品を見る前からある種評価は始まっている。しかし当たり前のことだがそう言ったことは括弧にいれなければならない。細田守について、日本のアニメ界について、私のあまり深いとは言えない知識でも、去年のある種記念的な「2004年」と対応するように、この2005年を細田守らと共に刻印することを声高に宣言することも吝かではないが、それはもっとエライ人に任せることにして…
オープニングの素晴らしさ。この一撃によって、上記のようなたわごとは一掃される。あの真っ青な青空のような大海原を、1本のしぶきによる轍をまるで飛行機雲のように起てながら厳かに突き進む船。ゴダールの『パッション』を想起せずにいられない。しかもどちらも冒頭なのだ。アニメの豊かさ、そして細田守のアニメの持つ浮遊感を伴った立体感を慎ましく宣言するオープニングである。
例えば金魚掬いの場面での三人による切り返し。箱庭的というか3人の人物がイマジナリーラインを無視して、それぞれ中心に幾何学的に役割を与えられ、振る舞う。キャラクターや建造物を三次元の空間の中に自由に配置してシミュレートしているような感覚、それが細田守の空間にはいつもテクスチャのように張りついている。「キャメラの位置」をもこの細田空間の中でシミュレートされたものであり、画が、アニメーションが、逆説的にキャメラの存在とその位置をも規定しているかのような感覚、そもそも全てが虚構であるアニメにおいてキャメラの存在こそが最も大きな虚構である。この立体感こそが実写映画では『死霊のはらわた』では出来ていなくて、『スパイダーマン』シリーズでは少し出来かけていることである。数学的な立体感である。消失点があるエッシャー的な立体感である。
これも細田の指紋の一つであるが、テンポの早さが尋常ではない。もう少しゆったりと時間を贅沢に使えば良いとも思うが。カットとカットの間を溢れ出してくるかのごとく台詞が襲ってくる。これは画用紙の白紙の部分を生めようとする子供の振る舞いのようにも思える。
細田の紡ぐ物語は、常に「本編」の主題をさらりと突く。それは押井守が鈍い刀でぐりぐりとえぐるような姿勢でも、富野由悠季が怒りと諦念と戦略を込めて爆発させるようなものでもはなく、あくまでもさらりとしている。それは『どれみ』での物語の一番大きい装置であった「魔女」への本質的な問い、『ナージャ』での主人公が「少女」であり「思春期」であることへの本質的な試みでありながら、それでも物語の根幹を揺るがすような、否定するようなことは決してしないものである。
本作の「仲間」というテーマは言わずもがなこの「ONEPIECE」固有のテーマではなく、「友情、努力、勝利」のいわゆる「ジャンプ的」なものに脈々と受け継がれてきたテーマである。尾田栄一郎の『ONEPIECE』と言う作品はジャンプマンガの正しい嫡子である。仲間を更新してもよいのか?という小中学生にとっては人生の問題そのものである。仲間たちをこのまま殺してしまえなかったのは制約上の問題とは言え残念。小学校時代の友達と、中学校時代の友達と永久にやっていくことはほとんどないのだが、それに対する決別と出発、これが綺麗な意味でも汚い意味でも「大人」になるということである。オマツリ男爵を撃破したときの新しい仲間たち(あの「家族経営の海賊」が「仲間」であることの説得力に今一つかけているのは残念)をみてルフィ海賊団のメンバーは何を思うか。あのカタルシスで画面が白くなるのはルフィの爆発した感情は必ずしも怒りだけではなくて、かといって悲しみだけでなく、かなり複雑な科学反応のすえ真っ白い灰になってしまったかのようだ。オマツリ男爵の姿は、ジャンプ系主人公の一つのバッドエンディングを体現している。チョビ髭もそうである。しかしオマツリ男爵はかの物語の終焉と共にしっかりと成仏するだろう。しかしルフィは今後また本編に戻りジャンプ系主人公の十字架を背負いつづけることになるだろう。友との決別とその後に対する倫理が問題でなのである。単純な「仲間は大事だ」という問題では決してない。ここにはケンシロウ的な漢はいない。
だから、この作品は「仲間を思う心の素晴らしさ」などは全くうたっていない。時には仲間を本当の意味で失うこともあり、そのときどうするか、チョビ髭を、それまでのRPG的な「なかまがふえた!」というのとは違った文脈での、昔の恋人が新しい恋人を作ったような、あの承認を見て子供たちはどう思うか。『どれみ』でも『ナージャ』でもそうであったように、本作でもルフィは少し大人である。