富野喜幸(総監督)『伝説巨神イデオン 接触篇』/『伝説巨神イデオン 発動篇』日本、1982年 をビデオで

形式と内容という不可解で不幸な二項対立のもとで富野喜幸(由悠季)の作品というのは語られるように出来ているように思う。あくまでも私の思考と言葉が他に良き道具を見つけられないのでこういう語りかたになってしまわざるを得ないのであるが、やはり富野由悠季宮崎駿押井守、そして細田守に至るまで、アニメーションというジャンルにおいては宿命的に形式と内容という二項対立というフィクションをある程度受け入れてしまわざる得ない、というよりもそうしたほうが語りやすいという安易な事情とも言えよう。しかし、形式と内容の絶対的な区別など不可能なように、その道具立てのもとでもやがてどちらについて語っているのか判別不能になってくる。
富野由悠季はやはり「内容」と、その相似形としての「物語」の作家であろう。
「映像そのもの」はここでは、あくまでも「物語」を伝える道具に徹しようとしていて、良き道具であろうと必死にもがいているような気さえする。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』という作品のタイトルをいまさら挙げて、パイオニアであると宣伝してもつまらないのだが、既にこの『イデオン』の15年ほど前にこの作品は公開されている状況、そして私も既に『2001年〜』を観ていることを鑑みるに、イデオンのラストでの加工が施された実写ですら、ある種の豊かさを秘めていることはもちろん否定できないまでも、ある種の記号性を強く帯びていること、そしておそらくこれらの既視感のある映像を作家自身強くそのコノテーションを意識していることは間違い無く、それはこの作品が想定している観客とも同じコードを持っているはずである。要するに富野の映像は意味を強く持ちすぎているのである。
例えば富野作品に枕詞のようにいつも言われる、「死」であるが、実はそのどれもが極めて記号的に扱われていることに気付く。「ドラマの流れの上での演出」とか氏自身が嘯いているようなレヴェルでのそれではない。確かにある種のリアリズムによって人の死を深く描写しているし、感情の高ぶりを催す。しかし、死の描写に対するリアリズムは死んでいる者の映像そのもの「死」そのものではなく、誰かが死んだという「こと」、死の観念に強く寄り添っている。このリアリズムは決して死そのものを見つめるためのものではなく、それを強く「意識」するためのものである。物語で重要なのは死そのものではなく死という「こと」なのである。そのことが「死」に記号性が強く帯びている所以であろう。そしてその死の記号化の末が、ラストの死の無意味化であろう。これは死を軽く扱っているとかいう猪口才な責めにあう対象ではなくて、結局のところ「私」の死以外はすべてこの世界とその記号化との渦の中で、記号であり対象にしか過ぎないのだという倫理観である。
物語としても大枠をみると、いわゆる「サイバーパンクもの」のごった煮であるという観は否めない。それより「運命」と言われるような決定論的世界観としての大枠に対する、不完全なる個の抗いが主軸である。これは結局先に述べた死の記号化、それとの戦いと符合してくる。死と運命への抗いとそれの無意味化、確かにその無意味化が成された最期の地平においてはそれは「幸福なこと」であるが、たとえその幸福がわかっていたとしても、よしんば「約束された未来」として提示されたとしても、それに抗わざる得ない人間の本能とでもいうべき性質、ここがみそであろう。