湯浅政明『マインド・ゲーム』日本、2004年 をビデオで

オープニングを観て『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』のクライマックスのひろしが自分の靴下の臭いを嗅いで、反省を思い出すシーンをすぐさま思い出してしまい、これは何らかの言及ではないかと思ったが、実際そうであると思う。但し、ここで志向されているのは未来である。「未来」というイメージも含めた過去へのノスタルジーとそれの乗り越えではなく、アカルスギルミライへの、ロマンティックな慰みではなく、むしろ残酷な真実をも内包した、文字通り、理論的に可能性が無限であるところの未来へと開かれているものである。その根拠にこのフラッシュバックは回想、フラッシュバックはなくアラン・レネ『24時間の情事』のように冒頭に置かれていることからも明らかだろう。オープニングの幾多の映像は徐々に物語によって秩序を持ち出し、意味を限定されていくが、その後もなお変奏された幾つかの映像のよって、この豊かな混沌は一定の強さを持ちつづけるだろう。この無限の可能性自体がゲーム的なのであり、世界がゲーム的であり、人生がゲーム的であるということであろう。
この混沌を寄る辺なき不安と捉えることも出来るだろう。その不安はこの作品自体が混沌としすぎてただの映像の群体に過ぎなくなってしまうのではないかという不安と一致するように思う。そこがこの作品の強さでもあり、弱点でもあるように思う。そこで、あくまでもゲーム的なオブラートに包もうとしてはいるものの、「生と死」というよりはそれへの執着、生への未来への執着、といったものを何とか機軸にして、この映像と物語とを1本の作品に仕立て上げようとしている。しかしながら、物語の中でそれらを何度か「リセット」出来ることからも分かるように、フィクション的である。この作品にそういった機軸、価値基準を設けること自体が、最も『マインド・ゲーム』的ではないのである。しかしながらその非-マインド・ゲーム的なるものがこれを1本の作品として何とかかろうじて成立させているのもまた事実である。
例えば登場人物の感情が大きく振れるとき、人物の顔は声優(役者)本人の顔をトレースしたようになる。一見これは実写とアニメとの間をある程度均質化した押井守の言う「すべての映画はアニメになる」という現象の一端かと思わせるが、必ずしもそうではない。断続的に「脈絡のない」、「荒唐無稽」な物語と映像が繰り広げられているように見える、この作品にあって、上記の演出を用いる場面は厳格に定められている。ルールがある。つまりそれがこの映像の中で一個の機軸になっているといえるだろう。これは自由な演出といったものではない。
しかしながら、これらの強度に頼った演出なくしてはラストの大脱出はあり得なかっただろう。「現実」というか「従来のアニメ的映画的リアリティ」へのある種の信頼があるからこその逸脱であり、回帰である。
なんともいびつであり、それゆえ魅惑的で恐ろしい作品である。

マインド・ゲーム [DVD]

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