ポール・グリモー『王と鳥』フランス、1980年 @シネマ・アンジェリカ

宮崎駿高畑勲が影響を受けた作品、という触れこみで観たので、いやがおうにもその指紋が目に飛び込んでくる。この躍動感は凄い。鳥達が空を飛ぶ感じはディズニーに近いのではないかという印象をうけた、全身のうねり、などの細かい描写。そして、煙突掃除と羊飼いが長い階段を降って逃げる様の躍動感、スピード感といったらない。
やはり特筆すべきは後半の巨大なロボットの描写についてであろう。言わずもがな、「巨神兵」、「ロボット兵」のモデルと思しきデザイン(しかしこれは例えば諸星大二郎の漫画にもこういうデザインの巨人が現れるし、巨大な甲冑のイメージとして絶対的なオリジナルがこれであるとは思えないが)、それが破壊の限りを尽くす。このロボに限らず建物やその他巨大なものを巨大なものとして立体感と威圧感を確実に出している演出技量は素晴らしい。スピルバーグの『宇宙戦争』などを観たときも感じたことだが、巨大なものを巨大なものとしてスクリーン上に、我々の眼前に現出させて見せることの出来た映画はそれだけで傑作といてもいいと思う。そういえば細田守の『デジモンアドベンチャー』もそうだった。
閑話休題して件のロボに話を戻すと、このロボの破壊行為鳥がその操縦を奪ってからは基本的によいことをしているはずで、このフィルムの結末も愛する二人が結ばれて憎き暴君が吹き飛ばされるというお決まりのハッピーエンドであるにもかかわらず、どこか寂寥感がある。このようなアニメ作品において、破壊行為などというものはクライマックスであり、カタルシスを得られる場なのであるが、この無表情なロボは人間や鳥達の物語とは全く別な場所に生きているように振る舞っているようにみえる。むしろ破壊そのものの爽快感は下層んぽ貧民街のようなところに現れたときのまさに恐ろしい怪物然として破壊して回るときのほうがったようにも思う、ここには「恐怖」という要素も含まれているだからでもあるだろう。しかし、さいごあの巨大な(そう、この物語は最期までこの巨大な城の中でのみ繰り広げられているのだ)城を破壊し尽くすシーンの寂寥感、あの巨大なものがただの砂山に化してしまったときの寂しさ、そして最期に破壊したもの、鳥の罠、を叩き潰すときのあの叙情感(これがラストカットなのだが)、このロボの決して躍動しない顔や手の細部が堂々とゆったりとした尺を以ってスクリーン上に示されるだけで、ため息が出る。