山本暎一『哀しみのベラドンナ』日本、1973年 @ポレポレ東中野

圧倒的なイメージの連続。イマージュと言うよりは、日本語の「イメージ」。想像力の素晴らしさというごく素朴な、作品に接するときの原初的な感動に充ちている。
これを見せられると、人間の想像力はもとよりいきる活力はエロスとタナトスしかない、と納得させられてしまう、ような力がある。
「サイケ」で「ポップ」な映像に乗せられるのはプログレのような劇判と、主題化の演歌(!)(神代や藤田を想起せざるを得ない)。まるで超良質かつ予算のかかったなロマンポルノのようだ。
それでいて、ギリギリのところで、というかそれが当然のことのように、足枷などとは間違っても思わせることもなく、しっかりとストーリーテリングしている。このことはどう考えれば良いのか。おそらくこれが物語り抜きの完全なる純粋なるイメージの連鎖であったら、少なくとも2時間の間我々を客席に座らせることは出来なかっただろう。どんな破壊的かつ圧倒的なイメージを連鎖しても、きちんとそこに「意味」がある。けっしてそれは単なる「光の束」ではないだろう。その多くのイメージは性的なものによっている、人間の造形はともかく、性的なものも、その片鱗だけ伺わせるだけで、我々はいともたやすくそれを喚起するだろう。「物語」というものもその延長に位置するのであろうが。