吉田喜重『戒厳令』(1973)

先日観に行った『鏡の女たち』の監督吉田喜重の作品。
三國連太郎扮する北一輝なる人物の著した革命論をめぐる明治期を舞台にした作品。
冒頭の若者が財閥の会長を刺殺し、自らも自決するシークェンスは見事だった。
個人的な話をすれば、60〜70年代の革命的な前衛を意識した。つまり「政治的前衛と芸術的前衛」を両立させたというか切り離せないと考えていた時代の映画って、昔は好きだったんですよ。スタイリッシュですし。大島渚なんかもろにそうですし、フランス映画だって。なにか世界的にそういう流れがあったんですね「前衛=左翼」みたいなイメージ。
でも、80年生まれの私から見るとそういうものも一つのトレンドにしか見れないんですね。
昔はこの時代のものに触れると「このころの学生は熱かったんだなぁ。」と半ば羨ましく思い、極端な話自分が「遅れてきた青年」なんじゃないか。なんて思ったりもしてみたんですが、よくよく考えると、自分がこの時代に生きていても、おそらく参加していないなと思いました。自分の性格を考えてみると。敢えてトレンドの逆に行きたくなるような性格ですから。
つまり無いもの強請りですね。自分の生きている時代への物足りなさをフィクションとしての「過去」の求めてしまっていた。
で、『戒厳令』に話を戻すと、出てくるキーワードはまさに「革命」だとか「天皇」だとかなんですが、渚が出すそれとは何か違う。
これはつまり私が思うに吉田が「革命」を信じていないのではないか?と。なんとなくですが。渚の作品からは、後で得た知識により刷り込まれているのかもしれませんが、学生運動に敗北した怨念みたいなものが感じられます。
吉田からはそういうものは感じ取れない。あくまでも冷静に、というより冷徹、冷酷にそれを描写しているように感じる。
「革命」などフィクションだと。更にいうなら「反革命」も「天皇」もフィクションであると。フィクションに対して別のフィクションをもって抗しようとしているのだ。
この映画は「都市」も「大衆」もすべてフィクションとみているのかもしれない。吉田は徹底した懐疑主義者か?
だが、『鏡の女たち』からはそういった気配は感じられなかった。そもそも『鏡の女たち』は実存的な作品だった。このころの作品を見ると考えられないくらいに。この三十年で乗り越えたのだろうか。
私はこの作品を「過去」のものとしてしか観ることは出来ません。今は。