2006-06-01から1ヶ月間の記事一覧

本多猪四郎『ゴジラ』日本、1954年 をビデオで

冒頭の一連の漁船の連続遭難。怪しく光水面。燃盛る漁船。この「怪しさ」というのはどれだけクオリティを上げてもVFXでは到達できない種類の生々しさである(無論VFXでしか不可能な種類の「怪しさ」もある)。この種の特撮を観るといつもこの種の生々しさに…

小津安二郎『小早川家の秋』日本、1956年 をビデオで

確かに異色作というか、奇妙な作品である。松竹ではなく、東宝に招かれて撮った作品だからとか言う単純な理由では括れないのではないだろうか。 突然無性に小津のカラー作品が観たくなって、デッキにカセットを突っ込んだのだが、やはり小津のカラー作品は生…

成瀬巳喜男『妻』日本、1953年 をビデオで

成瀬の映画で、私がグッときてしまうのは林芙美子原作のものが多いので、林芙美子による物語が良いということなのではないかと思ってしまうが、やはりそうではないだろう。映画表現として成瀬がフィルムに刻印しているものが確かに素晴らしいのである。 成瀬…

押井守『立喰師列伝』日本、2006年 @吉祥寺バウスシアター

立喰師の映画、食についての映画と聞くと押井守の作品を観つづけているものにとっては、とうとう来たか!という感じなのだが、そういうテーマを期待してみると、例によって肩透かしを食うだろう。何しろここでテーマになっているのは「食べる」という極めて…

物語という癌細胞

先日ジャームッシュの映画について考えているとき、物語を「癌細胞」であると比喩したが、この比喩はうまく使えそうだ。一度発生してしまったからには容易には消し去ることは出来ない。二つのショットを繋げるだけでそこにはもう物語は生まれてしまう。巧み…

成瀬巳喜男『夫婦』日本、1953年 をビデオで

三國連太郎の不穏な存在。あの顔つきと声と体がこのフィルム自体に妙な傷を残す。

ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』フランス、1950年 をビデオで

この「純粋過ぎる」司祭の苦悩と孤独と呼応するかのようなフィルム。抑制された演出とドラマによって画面は暗闇に包まれるだろう。この禁欲的な映画を人間の顔が、恐ろしいほどまでに豊かで官能的なものにしている。少女たちの顔はエロティックでその視線は…

リハビリテーション

やっと部屋でも映画を見出したが、テレビはちっさいし、モノラルだし、カーテンもないし、劣悪な条件である。さらには、半年ほどのブランクのせいか、キーが思うように進まない。もっともっと頭を使って日々過ごさないと。今日、『ナイト〜』をみて余り言葉…

相米慎二『お引越し』日本、1993年 をビデオで

相米慎二の作品を観て思うのは、語れないこと、言葉では言い表せないことがあるから映画は存在するのだ、という強い確信である。相米の作品ではしばしば「子供」を中心とした「物語」が繰り広げられているように一見すると見えるかもしれないが、じつは「大…

ジム・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット』アメリカ、1991年 をビデオで

映画から物語という「癌細胞」を取り除いてやること。ジャームッシュが近作の『コーヒー&シガレット』でも分かるように、オムニバス形式をとるのは必然であろう。話芸というか小噺というか。いかに一個のシチュエーション、一人一人のキャラクターから「映…

ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』アメリカ、2005年 @新宿武蔵野館

時間と空間を示すこと。物語や意匠ではなく、さらにそれらを乗せるメディアとしての「映像でもなく、そのもうひとつむこう側の、むき出しのなにかを映画は示すことが出来る(ここで言う「なにか」とは映像というシニフィアンによって表象されたシニフィエで…

久方の

観た映画についてここに書くのも随分と久しぶりだ。実は先月ノートを購入して日記とも覚書とも言えぬものを不定期で書き始めた。こことmixiとノート、三層構造の私。どれが本当の自分かとか、野暮なことは言わないが、今のところはうまく楽しく使い分けてい…