アキ・カウリスマキ『過去のない男』

「過去」というより「名前」、「ID」をなくした男といったところでしょうか。暴力は人を傷つけるのみならずいろいろなものを壊し、奪う。
名前を失ってしまうだけで、将来までも不便になる。小説なら「男」だとか「名前のない男」だとか暫定的に、妥協して呼称を付けることも出来ようが、映画ではこの「名前のない男」を名前のない男として、ただひたすらに見つめるのみである。
普通なら仮名でも新たな名前をつけて生活するのだろうがこの物語ではそうはならない。ひたすら「過去のない男」として生きつづける。
普通に考えると「過去」の記憶が「私」の同一性の拠所になっている面もあろう。その意味では主人公の「男」はアイデンティティークライシスを迎えてもよいはずだが、淡々と厳しいコンテナハウスでの生活を送るしかない。将に生まれ変わったといってもよいだろう。だから、身元が判明し離婚したらしい前の妻に会っても何の実感もない。もう別の生を生きはじめているのだ。「人生は前にしか進まない」のである。
病院で「甦る」シークェンスはまさにそのことを表している。
周りの浮浪者たちもこの作品の中で過去が明らかにされることはない。ただ一人を除いて。
銀行強盗の親父のみは我々に過去を明かしてくれた。しかし彼はその生の幕を自ら引いた。
彼らもまた「過去のない男」たちなのである。

いや、しかし相変わらずのカウリスマキ節全開でファンにとってはたまらない感じでしたね。音楽も相変わらずの感じで。
とはいうものの、冒頭で暴漢に襲われるシーンなんかは、ちょっと感じが違い「おや?」と思いました。なんていうか、いつもなら、予告編にある通り一発バットで殴られて終わりじゃないですか。でも、その後も執拗に殴られ蹴られで。
あと、「男」を助けた家族の奥さんが無理にスープを飲ませているシーンなんかも私のカウリスマキのイメージだと、あんなに汚らしく、ヤン・シュヴァンクマイエルが描く料理みたいに、口元を汚しながら飲ませたりはしないと思うんですけど。
でも、中盤以降「男」の生活が軌道に乗り出すとともに、いつものカウリスマキの指紋というか、記号がでてくる。フィンランドの経済、政治の状況ってそんなに酷いんでしょうか?カウリスマキの描くフィンランドって、どことなく日本に通じるところがあるような気がするので、気になりますね。実際近所でも(神戸でも大阪でも)浮浪者は居ますし、私がバイトしているコンビニの廃棄された弁当などをあさっているわけです。だから、カウリスマキの作品って日本でもぜんぜん「外国」のこととして傍観してもいられないほど「リアル」なんじゃないかななんて思ったりして。
インタビューなんかではぶっきらぼうに嘯くカウリスマキですが映画と音楽そして人間を愛していないとこんな作品は撮れないと思います。というか、何とか希望を持ちたい。かりそめでも持たなければやってられないって感じですかね。
今回の作品は『浮き雲』に続く三部作の2作目ということだそうだが、どちらも希望のある、しかし厳しい現実がすぐ目の前にあるであろう、ラストでしたね。私たちは現代においては暫定的な希望をその都度更新しながら生きていくしかないのでしょうか。