諏訪敦彦『M/OTHER』1999年・日本

最初に私の耳をつんざくような弦楽器の不協和音。この一瞬の音で、この映画は、聴くことを強要するか、もしくは逆説的に拒否するかそのどちらかに、ともかく映画の中で音か果たす役割についてこだわった映画だということを予感した。そして、結果そうだった。そして同時に音とときには融合しときには乖離する映像との有機的な「もの」としての映画であった。
しばしば、しゃべっている人物のいる中、カメラの手前に障害物が現れ、それが漂う。
坂道の途中に突如現れる犬。あれが演出されたものならば、天才的、偶然ならば奇跡的な事故だ。
中盤、三浦智和が静岡に出張で留守になったときの、重層的なダイアローグと映像。三浦智和の恋人とその友人との会話、遊ぶ子供たちの会話。目の前に割り込んでくる障害物のような映像。それでも聞こえてくる音。それらの重層的な、不協和音が私に眩暈を起こさせる。
さらに、終盤に入ると、音というものも、映像がカメラで撮影されているのと同様に、マイクで録音されていることを意識させる。鼻息がかかる音や、マイクが押さえられて音がこもったりしても、芝居は続く。挙句マイクが胸に押し当てられたとき、一瞬だが役者の鼓動が聞こえる。これは衝撃的であった。映画が撮影されたものであることをつきつけてくる映画は数あれど、音が録音されているものであるということをここまで意識させて映画は少ない。聴覚情報のほうが、視覚情報よりも、普段無意識的に摂取しているのだ。
この浮遊したような映画にあって、クレジットに突如現れる「ストーリー」という役割。この作品に「脚本」はなく、「ストーリー」と「ダイアローグ」で成っている。この作品において「ストーリー」の果たしている役割は緊張感を持続させ、次のシーンを撮影し、繋げるための方便に過ぎない。
と言う部分もあるが、もちろん映画として以外の魅力。男女の「わかり得なさ」、子供の「わかり得なさ」。それは身につまされる。当然タイトルの『M/OTEHR』は<母親/他人>を表しているのは明らかで(そういえば昔こういうCMありましたね。家庭教師のトライだったかな。)、子供にとって母親は唯一無二の人物で、それの代わりは誰にもできないものであり、それは女性の側からもそうで、自分が産んだ子供以外の母親にはなれないという、自明のことが、離婚という、子供には力の及ばない異世界の出来事を通じてそれを騙しながらでも埋めていかなくてはならないという現代の状況。「私のこと分かってないじゃない」という女性の当たり前のことを再確認するような残酷な台詞は(貴方のことをわかっている/わかっていない)という問題を消し去る。それに対して「じゃあ俺のことはわかっているのか?」という返答は無意味なのである。云々。
が、やはり私のようなものにとって、そういう要素は「実感が沸かないとか」そういう次元の問題を超えて(実際見につまされますし、自分だったらどうするかなぁとか考えたりしますよ。男として、人として。実際「リアル」お話だと思います。)、二次的な魅力でしかありません。
この映画を見た後では、大谷健太郎の映画も霞んでしまう。