クオリティは誰のため?

http://www.ntv.co.jp/ghibli/web-as/00top.htmlより。
いろいろな人が話題にしているようですが。
ここでは「クオリティ」という言葉をかなり狭い(「WEBアニメスタイル」にあるように「作画」レベル、「画が整っている」というレベル)意味で用いますが、たしかに、昔の画と比べると小奇麗になったように思える。昔の画は多少汚くてもそれを補って余りある迫力なんて言うものをノスタルジックに今の作品に求めるのはナンセンスだと思うが、それとこれとは話は少し別なような気もする。当時はまだ、そういう「クオリティ」で許された、それが限界だったというのもあるだろう。が、一般的に言って、クオリティの水準というのは変化するので、昔の作品がクオリティが高くて今の作品がクオリティが高いというのはやはり間違っている。クオリティというのは作品を「商品」というか、お金を払って観みさせるに堪えるものであるという最低基準でしかない。つまり一定のクオリティ(画が綺麗、口の動きと声が合っている等)を満たしているだけでは作品の価値としてはまだスタートラインに立っただけに過ぎない。
「クオリティ」を売りにするのなら、当時の一般アニメとディズニーアニメくらいの格差がなければそれはいえないと思います。
「荒削りだが光るものがある」という場合も私はもちろん認めるが、それを狙ってやるようではプロの作り手としては、駄目ですよね。これは漫画家があえて、絵を崩すのとは別次元の問題です。シニカルな見方をすれば「クオリティが低い」ことを楽しむ種類のものもなきにしもあらずですが。
これは今度時間やきっかけがあったら書こうと思ってたんですけど、『幽遊白書』や『おジャ魔女どれみ(ドッカ〜ン!)』の終盤って、凄い迫力なんですよね。内容の好き嫌いや前者の場合原作を超えて。前者の「泉水編」なんか、もう内容うんぬんの議論をするまえに作り手が、本当にノリノリで毎週いろんな事をするのが楽しくてしょうがないような「熱」を感じ、明らかに「アニメでしかできないこと」をある程度志向しやっているように感じたし、『おジャ魔女〜』のラストちかくの「作画のクオリティ」もそれはクオリティ云々の話を超えてどれだけ、作り手が作品を愛しているかが伝わってくるような感動的なものだったと思う。(それが『ナージャ』になるとクオリティは引き続き保っているものの…。)これらはもう「クオリティ」の問題から1歩前に踏み出ていると思います。(具体的な指摘や論はまたの機会に…。もう一回観なおさないと。)こういうアニメをもっと観たいんですがね。
自主映画の世界なんかだと、クオリティが目も当てられないほど低いものなんて山ほどあって、だから逆に例えば「ぴあフィルムフェスティバル」なんかの入選作を観ると、もうただ一定のクオリティを満たしているだけの作品ばかりになっている。一般的にいって、一定のクオリティの水準を満たしていなければ評価の対象にもならないということでしょう。自主映画、学生映画のような世界だとそのクオリティ自体が評価の対象になるという現実があります。