ロッセリーニ/ゴダール/パゾリーニ/グレゴッティ『ロゴパグ』1963年/イタリア/フランス

4話からなるオムニバス。タイトルは四人の監督の名前の頭を並べたもの。

前半は中年男性がスチュワーデスを口説こうと躍起になりそして振られるだけの凡庸な話かと思いきや、女性の純潔性をキーに話が後半大きく展開する。中年はマザコンの異常性愛者であり、女の純潔らしさに惹かれている、と。婚約者の指示で「アバズレ」の格好をして中年男性を失望させる。美徳であるはずの純潔性がかえって仇になってましたよ。という話。それは男性社会が作り出した美徳であり、女性はその犠牲者である。
ラストの婚約者、中年男それぞれが壁に映し出された8mmフィルムの映像とそれぞれの思いで絡み合うモンタージュが秀逸だった。

やはり、最初の映像でゴダール作品だとクレジットがなくても分かる。横を向き煙草を吸おうとする女、それに火をつける画面外から出てくる男の手。
パリに超核爆弾が落ちる。が、一見何の変化もない。壊されたのは倫理、そして論理(ロジック)だった。
しかし、男女の会話というのは元からロジカルなものとは少しずれているように思う。それをこのようなSF的な比喩で表現したのだろう。
やはり、映像と音響の遊離のさせ方が大変うまい。パリに爆弾が落ちた新聞記事に重なる爆音と悲鳴。これは『中国女』などにつながる。何気ない仕草がスイッチになり突如として静かに響きだし、視線の動きで突如として止まる音楽。ロジックを失った空間にロジックなく響く。
ロジックから離れることは実はロジックを必要とする。難しいのだ。

キリストの磔刑を映画化しようとしている監督。それをオーソン・ウェルズが演じる。何度もおなじ構成で反復される諸映像それに何度も反復して「間違われる」音楽。監督の声を皆が反復する(最後には犬までも!)反復の映画だ。
第4話:ウーゴ・グレゴッティ「放し飼いの鶏」
喉をいためているので人口声帯をつかって消費経済について公演する教授。その一例である中産階級の家族。両者の平行モンタージュ
人口声帯の声の機械的な響きと、家族の機械的な機構に翻弄されている姿。
内容的には、まぁ面白かったが映画的には特に観るところはなかった。
●すべての作品が皮肉味たっぷりのコメディだったがもちろんそれは社会批評だからである。コメディやパロディは批評の最も有効な手段のひとつである。