ジョナサン・モストウ『ターミネーター3』2003年/アメリカ@阪急会館

ロボットやコンピュータがテーマになっているSFには大雑把に言ってしまえば2通りあって、すなわち、それらが「知能」を持っている場合とそうでない場合である。
ターミネーターシリーズはスカイネットという人工知能が意識を持ち人類は要らないと判断するという、この話の一番の元になるものがある。つまりこのシリーズは前者であり、意識を持った、すなわち人格を持った機械=非生命と人間がどう折り合いをつけるか(解決方法が戦争であるとしても)という話である…はずである。
ところがこの『3』だけでなく、どの作品のもそういう機械は実際にスクリーン上には姿をあらわさない。おそらく未来の機械の組織にもヒエラルキーがあって、意識を持つものが意識の無いものを製造して操っているのだろう。意識を持つからには倫理もあるはずで、同じ機械をこう操ることに関する根拠付けなどはどうなっているのだろうかとか勘ぐってみたりした。
そういうわけで、今回登場したT-850もT-Xもプログラム=命令どおりに動く機械、まさしく原義どおりロボットである。つまり結局は主となる物語上の「今」では人間とロボットとの安直な2項対立ははっきりとしているというわけだ。
特に映画のような視覚媒体の場合感情の直接的な表現は声と身振りと表情であろう。人間の中に紛れ込み、暗殺するために作られたわりには感情表現を擬似的にするプログラムも今だ組み込まれていないT-850は能のようにライティングや環境でそれ(らしきもの)を「演出」されている。人間でさえ他人に感情があるかどうか実際に確かめることが出来ず、たえず経験的に「そうおもっているらしい」記号的条件から判断するだけである。(『2』で感情を持ったように見える後半もあくまでも持っているように「見える」だけで、実際に持ったかどうかは誰にもわからないし、理屈上はありえない。ラストを感動的にし得ているのはあくまでも演出とそれを受け取るわれわれの主観である。)だから、ロボットというのは映画にとても相性がいいのだと思う。そして俳優というのは、まさに一般的な意味での「内面」は関係無く、あくまでも目に見える記号的なものとそれらの「間」のみでそれを表現するロボットであるといってもよい(それにいたるためのメソッドとかいう話は抜きにして)。そういう意味で『2』も今作もより表情の変化が少ない敵役のほうが魅力的なキャラクターであるのは当然で、それを我々が補完しているのだ。
しかし、ジョナサン・モストウはよくやったと思う。というか脚本ががんばったというべきか。これまでの作品を「アナザーストーリー」にすることなく引き受け、それなりにまとめている。細かいツッコミどころはままあるが。ジョン・コナーの『2』から今作までの物語があまりにもエドワード・ファーロングのそれにダブってしまいなんともいえぬ気持ちになった。更生のためにも彼をまた起用してもよかったのではとか思ったり…。あと、ジョンとケイトの沙汰が説得力に欠ける。
それにしても、スカイ「ネット」というネーミングはこの結末をみこしてしたものなのだろうか。