成瀬巳喜男『めし』1951年/日本

物語の中盤、原節子が東京の実家に帰ることを決心する場面の直前に、冒頭とまったく同じ数カットが繰り返される。リヤカーを引く行商人、学校へ子供を送り出す母親、つまずいてつんのめる子供、会社に夫を送り出す妻、忘れたハンケチを急いで渡す。
そして、カットは主人公夫婦の家の中へ。日々同じことを繰り返しているであろう、ごく平凡な朝食の風景。夫は食卓の前で煙草をふかしながら朝刊を読んでいる。妻君は土間であわただしく朝食の支度。やがて、食卓との間をあわただしく往復する。
しかし、1度目と2度目のそれには大きな差異がある。夫の姪が家出してやっかいになっている。2度目のこのシーンの前から、この物語の展開の重要なファクターとして、ずっとこの夫婦の間に、そしてこの夫婦と我々の間に目障りに横たわっているのだが、この反復によって一つのカットを取れば少しの差異が、大きな深刻な差異となって我々の意識、無意識に迫る。
そして、その次に示されるのが、ほとんど細部のクロースアップが無いこの作品において、唯一といっていいクロースアップ。めしを研ぐ原節子の手のアップ。
これらのシーンがこの映画の前半を端的に示している。
東京の実家にいる原節子の母親、杉村春子がやはり素晴らしい存在感を示している。凄くやさしい母親の役であるにもかかわらず、極めてシャープな芝居。シャープなやさしい笑顔。こういう芝居をプロの演技というのだろう。