北野武『座頭市』2003年/日本@神戸国際松竹

この映画を語る場合どうしても北野武の作家論になってしまう。
北野映画」の魅力というのは所謂「キタノブルー」といわれるような青みを帯びた画面の色調を言うのではもちろんなく、よく用いられる独特の「間」という言葉で言い表すには足りない、独特な空間であろう。
その独特な空間は、さらにこのなかでおこる暴力はピストルという空間を超越させる装置によって強調される。あるカットで男がピストルを撃つと次のカットでは男が倒れる。銃弾はまったく映っていなくてもかまわない。銃声は空間を飛躍させる装置であるのだ。
一方刀は直接相手を切りつけなければならない。同じ画面のなかで、切るものと切られるものが同時に動く。それは映画的な空間ではなくて、実際的、物理的な人物と人物との地理的な距離である。
銃撃戦と殺陣は根本的に違う。正直言って、北野武に殺陣を撮る能力はないと感じた。殺陣というのはまさに舞踏のようなもので、「動き」なのだ。銃撃とはまったく違う。
もちろんそれをわかった上で今作に望んでいるんだろうけど、何よりも殺陣のシーンのキャメラが最悪だった。思えば今間で北野武はアクションシーンを一度も撮っていない。銃撃戦のシーンは人物は動かず、ただ見えざる弾丸のみが動き、その結果が示されるのみだった。だから当然今作も殺陣が終わった後の死体が散乱しているカットは素晴らしかった。
これまでの作品と打って変わって、切られた傷口はCGIではっきりと示され、ことさら「痛そう」だ。画面にはその「痛そう」さが充満し、死だとか暴力だとかの圧倒的な存在感がない。痛みとはすなわち生であり、死ではない。
その結果主人公の座頭市からも死の臭いが感じられず、「めくら」の剣客というトリッキーさのみが際立つ。その上でのめくらのふりをしているふりというオチにいきつくのだろう。
ソナチネ』を奇跡だとするならば、この映画はまさにこうなるべくしてこうなったのであることは間違いなかろう、無論特にどうということのない映画に。
それにしてもラストのタップダンスの撮影のいいかげんさはなんだろうか。北野武に映画史的な正しさを求めるのは間違いであるのは当然にしても、ひどい。
ガダルカナル・タカが出ているシーンがことごとく素晴らしかった。家で賽の目を聞き分ける練習をしているカットはこの映画の中で唯一といって良いほど良いカットだった。
北野武には「動き」を分節して再構築する類の作業、そう言う映画は無理だと思う。あの気持ち悪いスローモーションは何とかならないのだろうか。
私は北野武ではないのだからこんな心配する必要ないのだろうが、この先北野武はどう言う映画を撮ればよいのだろうか?