ラリー&アンディー・ウォシャウスキー『マトリックス・レボリューションズ』2003年/アメリカ@三宮東映プラザ

昨日観たのだが書く時間が無かったので、本日書く。
『〜リローデッド』のとき(6月16日)にも記したが、映画としては全然駄目であることは変わり無く、むしろもっと駄目になっている。作品の大半を占める「ザイオン」での「マシン」との対決。これが完全に退屈である。『〜リローデッド』の百人組手のシーンが良くテレビゲームみたいだと形容されるが今作も負けず劣らずテレビゲームのようだ。しかも前作のそれはマトリックスの中の戦い、つまりヴァーチャル・リアリティの中でのものであるというエクスキューズがつけられるが、今回はザイオン、つまり現実=リアルな世界での攻防である。これを好意的に受けとめると、マトリックス世界と現実世界には絶対的な差異は無く、結局ザイオンの存在する世界が現実か否かは言及されていないところを観ると、ウォシャウスキー両氏は含みを残し敢えて描かなかったともとれる。(ネオが「現実」世界で起こした軌跡について、スミスが現実世界に来れたことについて、結局理由が定かではない。「力」の範囲が拡大したとはどういうことなのか)
エージェント・スミスは奇しくも、「正義、平和…愛もマトリックスと同じだ」と言った。そういう「人間らしい」感情がいわば抑圧になっているわけだが、それを乗り越えるものは「選択」つまり自由意思であるとしている。何を選択するかではなく選択することそのものが重要であると。ここが重要だと思う。ただの選択ではそれは大きな枠組みの中で、井の中の蛙のように、全ての選択肢は包括されていくが、選択することそのもの管理不能である。それはつまり論理ではなく倫理である。
まぁ、そのわりにはネオとトリニティの「愛」を示すシーンがことごとく駄目なのは作品として大問題である。
マトリックスの世界観がだたの絵空事ではなく、現在の支配構造の素晴らしい比喩であることは、前にも述べたが、この支配構造から少し離れる一つのヒントは示せていると思う。この民主主義と言うマトリックスの中で、我々が生き延びる術は、選択である。
映画としては駄目であるが、これをネタに話すのには事欠かない。SFが今だ社会批判の装置としても十分に機能しうることを示せただけでも。この作品には価値がある。そしてこれもまた、映画の魅力の一つであろう。
さて次はいよいよ押井守の『イノセンス』だ。奇しくもこの作品のテーマは「愛」である。予告編を観る限り、『マトリックス』シリーズよりは遥に良い作品であろう。