河内長野へ

まだ検索してもヒットしないし、製作会社のサイトにも情報が載っていないので詳細は公にしないほうがいいと思うのだが、今或る監督の新作の、使われるのはほんの数秒に過ぎないのだが素材を撮影している。
そのために河内長野に、私と或るOBの2人でいった。
例の事件。去る11月1日に起きた「大阪河内長野家族殺傷事件」である。
その「現場」、二人の家や、周辺、駅前の店などなど、「彼らが見たであろう風景」を撮影してまわる、そのために先週くらいから、二人について調べていた。この仕事を引き受ける前までは、このことにはあまりは興味はなく、持っていた印象は女子高生の方が所謂「ゴスロリ」趣味で、リストカットの画像などを、自らのサイトで公開していたこと、そのものではなく、そのことについてワイドショーが騒いでいたり、ネット上で話題になっていたりしたということくらいだ。
今回彼女のサイトのミラーを見たが、驚いた。狂気や個性を感じたからではなく、全くもって普通だったからである。おそらく彼女は「普通」と言われることを最も不快に思うであろう。しかし調べれば調べるほど、この事件の底の浅さばかりが目に付く。そして殺傷された大学生の家族は一体何なのか、と。
彼女自身は包丁を買っただけで、「実行」する前に取り押さえられた。彼女家のある町は所謂ニュータウンで、周りから隔絶された山の上に突然綺麗に区画整理された土地に、同じような一戸建ての小奇麗な家が並んでいた。いたるところに「住民以外侵入禁止」と書かれた看板がある。しかも、それなりに古そうで、事件以降に設置されたものではなさそうである。
これは最近の「少年犯罪」に共通して見られる風景だ。「酒鬼薔薇」もそうだった。
私は以前ここに記したが、この生きている廃墟、未来の廃墟、可能性としての廃墟に対して、いささかフェティッシュな嗜好を持っている。そこには何らかのタナトスのような空気が渦巻いていている。
一方「実行」した男のほうが私には気になる。こちらはニュータウンではなく、いかにも郊外といった感じで、平地に家が並ぶ。所々に木工場などがあって、音がこだましている。何もない広い公演には、満杯になったごみ箱がある。玄関にはやはり花が供えられてた。何処にでもあるような町、固有名のないただの「街」であるようだ。
しかし、これらの印象はここて事件があったからだという先入観が入っていることは否めない。
そこには何処にでもあるような、むしろ、固有なものが何一つない、何処とでも交換可能な重みのない風景が広がっていた。