ロベール・ブレッソン『抵抗(レジスタンス)−死刑囚の手記より−』1956年/フランス をビデオで

所謂、脱獄もの。というよりは脱獄して終わりという作品である。年代はこれより後になる1960年のジャック・ベッケル監督『穴』と表層的に相似しているので、どうしても比較してしまう。どちらも実話を元にしたものであるし。どちらも黙々と脱獄の過程を捉えている。
劇的要素、映画そのものに本質的には属していない要素を悉く削ぎ落としたイマージュ。節目で流れるモーツァルトの曲(曲名はわからない。誰か教えてください。)のタイミングが素晴らしく、BGMでもなく、かといってライトモチーフとして自己主張することもない。
キャメラは主人公とその視界のみを映す。主人公に見えないものは私達にも見えなく、主人公に聞こえないものは私達にも聞こえない。最初に入った房の隣にいた鋳物工は顔も見ないまま、声も聞かないまま処刑されてしまった。実は脱獄したのは主人公と終盤に突如闖入してきた少年の二人のみではなく、キャメラマンブレッソンも一緒に脱獄したのだ。物言わぬ、姿を見せぬもう一人の登場人物が画面の手前に常に存在感を滲ませる。そこから逆説的に生まれるサスペンスはシネマトグラフ独自のものとしての一つの到達点であろうか。
最近小津安二郎吉田喜重のことばかり書いていたからではないが、ブレッソンの映画、特にこの『抵抗〜』もまた反復とそのズレを示す映画であろう。ベッケルの『穴』はその反復とズレの帰結が看守に見つかるあの「劇的」なラストシーンになってしまっている点が、ブレッソンとの大きな違いであろう。この作品における反復はドアの木材を削る、ロープを作る、鉤を作るといった脱獄行為のみではくて、囚人の生活そのものが、一般人の生活よりもさらにその反復の強度を増している。毎日バケツに入った排泄物を流す、洗面所で顔を洗う、手紙を渡す、などといったすべての行為が反復され、残された囚人たちはそれを繰り返すだろう。そしてその反復の先には不可知なものである死が、人為的に待ち受けている。銃声が聞こえるたびに誰かが処刑されているのだ。物語はただ脱獄するだけであり、台詞も非常に少なく削ぎ落とされている、もはやシネマトグラフ独自のものではない物語をブレッソンは拒絶したのであろう。
「抵抗のためにでもいいから何かしろ」と主人公は隣の房にいる老人に言う。この作品のタイトルも『抵抗』、この映画は内容で抵抗を訴えるのではない。そこに映されるのはただの脱獄とそれに至る反復動作のみである。むしろこの映画の存在そのものが「抵抗」なのである。
どうも小津安二郎との共通項ばかりを見出してしまう。日を置いてもう一度観なおして、特に音響面(台詞、物音、音楽)についてじっくり読みこみたい。
ブレッソンの作品をきちんと観れる機会を今まで設けれなかったのが悔やまれる。全部見なければ。フランス映画社が、近々何作品か上映するとアナウンスしてから1年以上立つがどうなったのだろう。関西にも早く来て欲しいものだ。