フィリップ・ガレル『自由、夜』1983年/フランス をビデオで

この映画で先ず思ったのは、空間の捉え方が凄く気になるということだ。前半といって良いのだろうか、船で海辺の家に行くまでの街中で捉えられたショットの数々。特に車の中で会話する二人を捉えたショットが気にかかる。冒頭の会話する男二人、老いについて語る或る映画監督の話をする二人。政治と映画の共通項、それに係わる人間を駄目にする。いきなり自己言及的な内容。時間を分断するように数かい入る「Liberte La Nuit」とタイトル。ゴダールを想起せざるを得ない。が、表面上メタ的な内容を含むのはここだけ。しかし、冒頭の所為もあってか、絶えず全てのシーン、タイトルさえも、それを撮影しているキャメラの存在が気にかかる。車がこの作品のなかでは、移動するためのものではなく、携帯用の密室のような、密室が移動してくるうような、そういう装置として機能しているように思われる。元妻が殺されるまで、男は密室に存在しつづける。かたや、「捨てられた」妻はただただ広い、空っぽの劇場で、涙に咽びながら針仕事を続ける。別れた後の会話も車の中でである。そして、別の武装した男二人が車の中で会話する、それに続くのは、彼らが妻を撃ち殺すシーンである。
新しい女が出来たとき、男は打って変わって、広い海辺にその居場所を移す。かつて敵の立場であるはずだった女と恋に落ち、それによって変わったのだろう。そこで永遠に続くかのように思われる蜜月。しかしそれもまばゆく光を乱反射させる海の前で、非情なるスローモーションで撃ち殺される男。まるで全てが夢か、あるいは女の日記であったかのように。
しかしこのようなシーンにあっても、常にキャメラの存在が気にかかる。これがキャメラによって捉えられ、映写もしくはビデオ再生によって再現されたイマージュであることがこびりついている、そこにキャメラマンが居ることが、キャメラを据えてあるということが気にかかる。
少し観ている間頭がボーっとしたりして、ほかのことを考えることがしばしばあった。しかし、これは私個人的には悪い兆候ではない。映画を観ているそのそばからインスピレーションを受け連想ゲームをして映画とも現実の時間とも違う第三の時間を過ごす、多くのアイデアがこの時間に生まれる。ゴダールを観たり、安部公房を読んだりしたときにはしばしばこうなる。
フィリップ・ガレルの作品を観たのは実は今回が初めて。もう少し彼のフィルモグラフィーを漁らないと、なにか宙吊り状態のようで気持ちが悪い。