諏訪敦彦『H story』2001年/日本 @テアトル梅田

個人的には待望だった諏訪敦彦の新作、『H story』がようやく関西でも公開された。
やはり、この作品は失敗作であると言わざる得ないと思う。決して傑作でもない。だが、私個人には非常に意味のある失敗作だったといえる。というのも私自身が一番最近に作った作品に失敗したからで、諏訪の試みに非常に親近感を感じるからである。諏訪の作品の作り方は非常にスリリングで絶対に2度と取れない映画を毎回作っているが、これはかなりリスクの高い作り方であることは言うまでも無く、考え方によっては失敗などというものは無いわけではあるが、それでも出来上がったものをみれば、全ては分かる。だからこの作品はしばしば傑作に形容されるような「素晴らしい失敗作」という類のものでもない。ただ、私にはとても重くのしかかる作品であることに間違い無い。
この作品のみならず、全ての諏訪作品はフィクションであり、ノンフィクションである。両者の境界線の曖昧さと、しかしそれでも両者に差異があるのだということがとりわけ今回の作品で強く感じた。それはメイキング部分と本番部分をノーカットで撮影するという試みによって非常に生々しい力を持った「撮影」部分と、それにひきかえ、作品の中の位相でいえば「現実」の部分であるはずの町田康がベアトリス・ダルを実際の、現在の広島の街へと連れ出す後半のシークェンスのどこまでも付きまとう、フィクションの匂い。これらのシーンは本来キャメラは存在してはいけないはずのシーンである。
町田康のこの作品での存在がフィクショナルであることは、前半に2度挿入される諏訪監督との対話のシーンで表明されている。巧妙に配置された二人の位置関係。町田康を、以前の作品では子供であったりそのおもちゃであったり、動物であったり、扉であったり、窓であったりした、被写体をさえぎる障害物になんとここでは監督自身がなっている。微妙な手の動きや上体のゆれ、そして町田康自身の上体のゆれによって、町田の顔は見え隠れする。そして何よりも巧妙だと感じたのは町田康の背後に配置されている鏡台である。そこの鏡には当然のように諏訪監督の顔と町田康の後頭部が映り、手前の配置の逆構図になっていて、その鏡台にも『二十四時間の情事』のワンシーンの写真などが仕掛けられている。その後2度目にこのシーンが挿入されるときに、ある「演出」が成される。1度目には無かったカップティーポットが鏡台の上に姿をあらわしているのである。そして、その対話の音声はやがて画面とはずれて行き、町田康の口とは無関係に発せられる。
さらに、町田がベアトリスといるときに2度、かかってくる電話。さすがにこれは受け入れられない。このようなあからさまな仕掛けをしなくても、二人をキャロリーヌ・シャンプティエが撮影しているだけで十分ではないか。このような作為を成したのは諏訪自身始めてだろう。電話の相手の声が聞こえるというのも腑に落ちない。とても奇妙である。
それらのズレは全てキャメラの存在によって引き起こされるものであろう。結局、我々がスクリーンで観ることが出来るものはキャメラで実際に撮影されたものだけで、本当に誰も知らない、観ていない風景は絶対に観ることは出来ないのだ。つまり、この作品ではこれまでの作品にみられるような二つの位相、フィクション−ノンフィクション、演技−素、ネタ−ベタのレヴェルからもう1歩飛躍し、この二つの位相の混沌を、これまでは現場とそれを捉えるキャメラの位相だったのが、今作ではさらに編集段階での位相が加わり、3重の構造になっている。
キャメラは作品中ほとんど人物の顔をこれでもかというくらいアップで捉えつづける。ほとんどのシーンはベアトリスの顔のアップである。この作品は一種の女優論、ベアトリスのドキュメンタリーになっていて、ベアトリスの存在こそがこの作品のテーマであるといっても過言ではないと言える。ベアトリス出なければこの作品は生まれなかっただろうし、他の女優だったら他の『H story』になっていただろう。
この作品の編集はどのようにして行われたのだろうか。編集・構成にやや不満というか、どうにかこの尺に収めたという感じがする。さらにいうならそういう時間的なものよりもこれを無理に映画という尺に収めてしまったという感じがしないでもない。そう言った約束事を無視して何十時間になってもいいので納得する編集にすべきではなかったか。今でも映画というものはそれを受け止めきれないほど小さなものではないと思う。