ヴィクトル・エリセ/ジャン=リュック・ゴダール他『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス/イデアの森』2002年/イギリス・ドイツ・スペイン・オランダ・フィンランド・中国 @梅田ガーデンシネマ/シネリーブル梅田

原題は"〜THE TRUMPET"と"〜THE CELLO"。イメージとしてはジャズとクラシックといったところか。なぜこのような邦題がついてしまうのだろうか。やや耳にうるさいトランペットの音色が人生のメビウス篇を束ねていて、それはヴィム・ヴェンダースのとるに足らない作品、『トローナからの12マイル』へとつながっている。この作品もまた、アメリカ映画への目配せで満たされている。疾走する路面を捉え、それを揺らしたショットはデイビッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』を思わせるが、あれほどの疾走感をこのショットは持ち得ていない。薬物の過剰摂取などではなく、トイレに急いでいるというだけで十分な作品だろう。
だいたい、この手のオムニバス作品は、特に今作のように10分という枠だけが指定されているような作品にあっては、それぞれの監督は自らの手癖を披露して終わり。という感じがほとんどである。半ば確認作業で、「うんうん。この監督はこういう撮り方するよね。こういう切り方するよね。」というかんじで、特に「新しい何か」驚きを得ることは基本的に少ない。だからこの短編が面白くなかったからといって、その作家に嫌気が差すとかそういうものでも、また無い。そういう中にあって例外だったのがあの『セプテンバー11』であった。
無論この作品群にも例外はある。

10年に一度の新作はなんと10分の作品である。が、しかしなんと濃密な10分であろうか。少年が腕に描いた時計から広がる様々なリズムと視覚とイマージュ。ふたりの男が芝刈りをするシーンは、思わず小津の『父ありき』のあの美しい流し釣りのシーンを思い出す。ファーストカットの赤ん坊の顔を写したショットの決めの細やかさから、背筋を正し、この10年ぶりの10分を一瞬たりとも見逃せないという緊張感を得る。このショットを皮切りに、総べての人物の表情が素晴らしく濃密に捉えられている。これほどまでに人々を濃密に、きめ細やかに、愛を持って接近している映画は近頃無い。それらの表情の裏には、ナチスの台頭があり、その歴史とは関係無く、2002年でも、1940年でも人々は生を力強く謳歌しているのだ。そして、その表情を奪うのは許されないことである。

特に書き加える必要は無いほど、カウリスマキの作品。『浮き雲』に代表されるような作品群はすべてこの作品の長編であり、変奏曲であるといっても良いほど。カティ・オウティネンが登場しカメラが寄っていく瞬間にこの作品のすべてが分かる、幸福な瞬間。カウリスマキの要素を凝縮した作品。名刺は名刺でも良く出来た上等な名刺である。

1分ずつの10章に分けられたこの作品は、『映画史』を軸とする作品群に加えられるもののひとつだろう。10分という制約を苦にも楽にも思っていないようなそぶりで(その点ではジャームッシュの『女優のブレイクタイム』もそうだろう。ただただ、何も起こらない、というよりもむしろそういう時間を敢えて選んで、緩やかに10分が流れていく。この作品が一番「10分」に近いだろう。)、「映画の最後の時間」、そこに映し出されるのはバタバタともだえるようにうごめくスクリーン。映画自身がその瞬間を拒否するかのようなイマージュがスクリーンには映し出される。これこそが「最後の時間」なのかそれとも、やはりそれを拒否したのか(この映像が何かの引用なのか、オリジナルか知識不足ゆえ分からない)。「最後の映像」。終わりが無い時間。終わりがあっては時間ではないのではないか、終わりがあるのならば当然は始まりがあるはずで、そのような時間を人間に認識することが果たして可能なのか、そして19世紀の終わりに確かに「始まった」映画にはいつか「終わり」の瞬間がやってくる。その瞬間を映画自身が描写することは可能なのだろうか。「時間の闇」=<映画>真の闇を映画に映し出すことが可能なのかという問い立てが、無を思考することは出来ないというヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の一節を引きながら、画面では大量の書物を処分する映像が映し出される。これまでのゴダールの作品にあって書物をこのように「処分」するシーンは観たことが無い。『論考』に従うのなら、やはり映画もまた沈黙せざるを得ない。描写できた瞬間にそれは不可能では無くなってしまう。可能性のすべてを網羅して、これ以外は出来ないと申告する以外には無い。
ゴダールはもしかすると映画において独我論を展開しているのかもしれない。あるいは独=映画論。そして、現象学独我論の類は、主張すること自体が無意味で、主張する相手=他者を想定した時点で崩壊してしまう。かつて淀川長治氏が述べたように、「両手で水を汲んでは指の間からその水がもれ落ちるのを繰り返す」*1という所作をしているのかもしれない。しかし、繰り返しはただの繰り返しではなく、永劫回帰へと至ろうとしているのだ。
とりあえずそれぞれ、エリセ・ゴダールの、この作品群にあって数少ない「新作」と呼べるものを観るだけでも、入場料を払う価値はあった。