ああ

草花を踏まず、生き物を食べない

●生活のリズムが無茶苦茶。昼夜逆転とかじゃなくて、反転してそれプラスもう少しディレイしている。昨日、というか一昨日はは寝ないまま昼過ぎに家を出て、ボーリングして、前からツタヤに行くときに気になっていてた、阪神高速の高架下沿いにある、「融家」という"KOREAN DINING CAFE"へ、結構おいしかった。チヂミとか。その後朝までカラオケ屋で。帰ってきたのは昨日の朝7時。そのまま寝床へ。晩飯前に起きて、それを食べたら無意識のうちに二度寝。23時くらいに目が覚める。ダラダラとネットサーフィンしていると、ビデオのスイッチが入る。25時から始まる『∀GUNDAM』の録画だ。今月いっぱい頑張ればコンプリート。やっと全部見れる。この所為で日本映画専門チャンネルの「ATGアーカイブ」の初回を録画できないのだ。今日は神代辰巳の『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』があるのに。リピート放送を番組表でチェックして。∀が終わり、ビデオで映画を、『10ミニッツ・オールダー』のゴダールの作品『時間の闇の中で』で一番最後に「最後の映像」として引用されていたエイゼンシュテインの『イワン雷帝』があまりにも美しく恐ろしかったのでそれ観ようか思ったが、早く寝ようと思って思いとどまり、少しネットをして寝ようと思っていたのだが、先週からやっている「真・女神転生」をエミュレーターでやりだすと、金剛神界の半ばから結局オザワをぶっ殺すところまでやってしまい、気がつけば朝に。女神転生シリーズの面白さはいわゆる「萌えのシュミラークル」というやつだろう。ディテールや世界観、ストーリーが小さい頃に矢追淳一スペシャルなどのオカルト番組や、FFシリーズの世界観、天野喜孝の世界、それらのルーツである神話や神と悪魔(含む、クトゥルー神話)、小松崎茂絵物語に興奮してそのリアリティの一部を形成され、小学校の図書室でビアスの『悪魔の辞典』を読みふけった人間が喜ぶものを非常にうまく配置してあって、多分私のようなそういうものがなんとなく好きというような人間はわくわくする仕掛けになっているのだろう。これがもっとコアなファンになると女神転生シリーズなどは底が浅くてそういう意匠的な部分では楽しめないのではないだろうか…。ゲームとしても十分面白いのがもちろん大前提としての話であって、戦闘システムがダルかった『ペルソナ2罪』は途中で止めたものだ。しかし、『〜罰』が非常に面白くて、というか戦闘システムから生じるストレスがなくなっていて、『〜罪』を最期までやり通さなかったのを後悔した。長時間、朝までゲームをした所為でなかなか寝られず、上記のボーリング〜に行く前に買った、例の文藝春秋を読む。両方とも完読し、コーヒーを淹れる。この文章を打ち始めながら飲んでいたそれもとっくに飲み終わった。次にその作品の感想を纏めたら、切れたゴロワーズを買いに行こう。まぁ、このあとすぐ寝て起きて飯食ったら、バイト行って帰ってきて…。来月には3年半やったこのバイトとも決別。昼間のバイトに切り替えて美しい生活リズムになれるかしら。
●今日は、自分が見る側だったら全然読みたくないような文章を打ってしまった。それでも消さないのはもったいなからというのと、こういう文章でも自分にとってのlogであり、可能性としてのいつか、読み返して自分の思考過程を他者として眺めるためである。まぁ、久しぶりに小説を読んだというのが意識下では多いのだろう。頭の中が言葉を使うモードになっているのだ。
●あ、そうそう。上記の融家で呑んだときに思いがけず、春休みにな上に、もともと4回生にもなるとあまり学校でも顔を合わす機会の減った、部の同回の友人たちに囲まれて、いろいろとありがたい説教を頂いた。酒が入っているとはいえ、いやむしろだからこそか、彼らが私の将来について真剣に語ってくれているのを見て、涙が出そうになった。内輪な集団内ではあるものの自分が観る側をほとんど意識せずに好き勝手作ってきた作品達が、私が思う以上に高い評価を受けていることには驚いたし、やはりうれしい。だからといって、「彼らのために頑張ろう」というのは主義ではないし、それはやはりおかしいとは思うが。やはり、持つべきものは友なのだなぁ。と思ったり、卒論が提出できなかったのはやはり結構まずかったなぁ。と思ったり。
●それにしてもしかし、このような私的な文章を不特定多数の目に触れる場所に晒しておくのはどういうことなのだろう。自分に酔っている部分もあるのだろうか。そういった感情は私的であればあるほど湧いてくるのだろう。オフラインでの自分を知らない人間に共感を呼びたいのか。このような文章を毎日記す気にはとてもなれないだろう。普段のスタイルの文章であったにしても、オフラインでこれだけ続けるのは私には無理だろう。やはりそれは他人の視線がモチベーションになっているのだろう。オンラインでこそ成り立つような太くない関係がいいのだろうと思う。自分で完全に制御していると思えるこの場での「私」像しか知らない人との関係。安全である。だから、大学の部の友人にはここの存在を知らせているが、地元の古くからの友人には知らせていないのだろう。たとえば大学での友人といる時に、別の場での友人と出くわしたときに感じるなんとなく嫌な気持ち、おそらく、それぞれの場でしかしない表情があるはずで、その表情を見られるのが嫌、見せることに対する妙な罪悪感。そんなところだろう。なんかこの文章も、上記と同じくアレだ。『蹴りたい背中』の影響みたいだ。