押井守『紅い眼鏡』1987年/日本 をビデオで

先ず、正直に断じてしまおう。この映画は学生の自主映画に毛が生えた程度の代物であって、とても正視に堪えるようなものではない。やや堅めの「映画」のパースペクティブから観ると、映画ではないと言ってしまっても大方文句は言われないのではないだろうか。実際、私は押井守による実写作品はこの作品と『アヴァロン』の2作品しか観ていないのだが、その2作から断ずる限りにおいて押井守には実写作品、つまり一般的な映画のセンスは無い。
だが、それでも私は押井守という作家を支持したい。というよりも、押井守の作品群を観るに当たって、これらの醜い実写作品にも、当然作家押井守のエッセンスが詰まっており、彼のフィルモグラフィーを、アニメ作品を考える上で決して無視し得るものではないからである。新作の『イノセンス』の予告編を観る限り、その映像は明かに『アヴァロン』を通過した上のもである。『アヴァロン』無くしては、『イノセンス』のあの空の色はあり得なかったであろう(この当たりは『イノセンス』はまだ予告編しか観ていないので推測に過ぎないが)。
だから、押井守を幸か不幸か愛してしまった青少年以外には決して実写の作品群を観ることを薦めることは出来ないのも事実である(押井作品の常連声優がキャスティングされているのもその要因だろう)
押井守は4本実写作品を撮っているが、「実写」で彼が何をしようとしているのかが、いまいちみえてこない。アニメでやるべきものを何かの間違いで実写でやってしまったという感じである。その振る舞いは、アニメのように画面を支配しよう、無から有を作り出そうと試みるも、それに悉く失敗している。この作品で何回かあった、人物が静止しているカットは、静止というものが現実にはあり得ないという事実と、それでも静止しようとする人間の悲しくも滑稽な姿が、広がっている。ここでいう静止とは、アニメに観られる絶対的に静止している画のことである。アニメの文法でこの映画は作られているとみて間違い無いと思うが、この時点ではただ気持ち悪いフィルムをこの世に生み出す結果になってしまっている。
先も触れたように『アヴァロン』までの実写作品の流れからいうと、この作品がすでに『アヴァロン』を予告していることに驚く。『アヴァロン』のなんとも空虚な画面はこの作品から一貫していて、色調を押さえたセピア調モノクロのショット、そして紅一の記憶と思われるショットの鈍いフルカラーのショット。そしてそれらのスタイルで差別化され、示されそれらの間のヒエラルキーを無効にする構造。これらは『ビューティフル・ドリーマー』の頃から変わっていなく、リアル=現実の世界を取り戻そうとする、現実世界に無条件で絶対的な価値を置いていた『マトリックス』シリーズとの決定的な差異である(最終的には『〜リローデッド』において、パラレルな世界と融和し共存する道を選ぶことになるが、同等とは認めていない)。シナリオ、構想、戦略の意図は掴めるし、押井ファンとしては面白がりたいところなのだが、やはり決定的に画面から映画的な力が感じられない。これが逆にアニメ作品になると「映画的」とも思えるほどの力をみなぎらせたショットをみせてくる。それはなんでもない街並みの風景なのである。そう思うと、アニメ作品におけるそれぞれの作品が一個の都市論とも思える『ビューティフル・ドリーマー』や『パトレイバー』シリーズ、『攻殻機動隊』などに比べてこれら実写作品は極めて匿名的な、いつかのどこかの街の幾らでも交換可能な風景しか広がってはいなく、フレームの外には何もないようである。ここでもやはり、アニメと実写のあるべき姿が逆転している。
押井の近年の持論である、デジタルによりすべての映画をアニメにする、という野望の第1歩がこの作品であることは間違い無かろう。しかしそれは『イノセンス』とそれ以降のまだ観ぬフィルモグラフィーがそれを裏付けてくれるのだろう。