3/3の『紅い眼鏡』のことについて

id:Pinxterbloemさんに批評を頂いた
http://d.hatena.ne.jp/Pinxterbloem/20040303#p3
基本的にここでの私の文章は即興で書いたもので、敢えて、観た直後の、印象批評をするように心がけている。そのあたりは御容赦を。と、いきなり言い分けめいたことを記しておこう。
もちろん私の印象批評に問題はあり、押井守の実写作品に対する違和感を、「映画ではない」の一言を以って断じてしまったのはやはり早計であり、指摘の通り「映画という表現手法の奥の深さ懐の深さ」を否定するような、映画を実際に作っている自らの首を絞めるような発言だったと思うし、このフィルムの中にも当然生きている映画的記憶をあからさまに無視してしまったのかもしれない。
少し言葉を整理しよう。自分自身のためにも。確かに映画は開かれたものであり、極論してしまえばキャメラを置いて、それを廻し、現像すればそれは一個の映画になる。だが、それは決して黒沢清監督の「ただキャメラを廻すだけでは映画にはならない」という発言の通り、「映画」では無いだろう。「これは映画ではない」などと言う場合の「映画」とは、もちろん前述のような、ただキャメラを廻しただけの代物には適用されない。辞書的な意味での「映画」、テクノロジーとしての「映画」という定義では片手落ちであることは明白である。
では、「映画とはなにか」と問われたときなんとこたえれば良いか。それはできない。「映画」として100余年来作られてきたものの集積であるとしか言いようが無く。すべての映画を観たわけではない者に「映画」とは何かを仮構することは不可能なのかもしれない。だからとりあえず、私にとっての映画とは私が今まで観てきた映画、とりわけ「すばらしい」と感じた、あるいは今現在「すばらしい」と思っている映画たちの最大公約数として仮構できるものであろうか。そして、最も相応しい答は「映画は映画である」というトートロジーであろう。
映画を言語の一種、あるいは従兄弟だとするならば、ソシュール風の言語の定義が役立つだろう。細かい定義はここでは置いておくとして、ここで重要なのはクリスチャン・メッツの指摘、「言語体系から脱落するものが言語活動を豊かにする。」ということであると思う。つまり、映画を絶えず魅力的で豊かなものにしているものの一つは、「映画ではない」と断じてしまいたくなるような「映画」であるに違いない。それでも、すべての「映画ではない映画」が母体である映画に寄与するのではないのは、当然で、これは言語活動における詩などがそれと対応していると考えられる。
例によって論が混乱してきたが、押井守の『紅い眼鏡』の場合どうか、指摘の通り『紅い眼鏡』には映画的記憶が息づいている、息づかせようとしている。押井守フィルモグラフィーは引用の集積であると言っても良いほどであろう。この作品でも絶えず引用されるシェークスピアの文句、白塗りの人物の動き、静止などは寺山修司のフィルムを想起させるし、ゴダールアルファヴィル』や鈴木清順の『殺しの烙印』、クリス・マルケルラ・ジュテ』の記憶もあろう。
だが、それがどうした。と言わざる得ない。押井守の引用の目的は、その引用を通して自らの作品、作家としての立場を明らかにして政治的に働きかけようというものでは決して無くて(清順のやり方に近いのはタランティーノであると思う。ただし清順のそれは映画からの引用ではなく、ありとあらゆる芸術、芸能の意匠のチャンポンとそれの映画への昇華であろう。歌舞伎のどんでん返しなどを思わせる、平面的で奥行きの無い画面構成、切り返しはもはや歌舞伎のそれとは大きくかけ離れて映画固有のものになっている。この『紅い眼鏡』における演劇調の導入――他の押井作品にも共通してみられるが、もほぼ同様だが、舞台演劇の延長に過ぎない印象を受ける。ゴダールの後続は私には思いつかない。『映画史』のような作品群における引用の洪水にあっても、決して押井作品のような意味の空洞化は起きていない。『ラ・ジュテ』に至っては論外で、あの作品のショットは正真正銘のスティルショットであり、映画の枠組みの中にあって画が凍っていることの凄さ、スティル写真が映画の一齣に当たるような一瞬を再現しているのではなくて、もっと大きな時間が内在していることを示していて(『ラ・ジュテ』のテーマが「記憶」であることが面白く、すばらしい)、意図も効果も大きく異なる。)、引用、他人の言葉やイメージ、「私」というもの以外に共通点の無いモノの集積によって彼が意図しているのは作品世界の空洞化、無意味化であると思う。それは『アヴァロン』に至るまで一貫している。ヴァーチャルリアリティという新たなリアリティの世界を手に入れた後、現実の世界とパラレルな虚構の世界とを共に無意味化、均質化して示している(これが『ビューティフル・ドリーマー』の場合だと「夢」の世界群と「現実」の世界との対比だった)。
だんだんと、id:Pinxterbloemさんの批評に対する応答では無くなってきたようなきもするが、押井守は実写において何をしたいかということは、やはり実写とアニメの差異を楽しもうというものではないと思う。アニメの手法で映画を作る、完全に画面を支配するということであると思う。だから「簡易ストップモーション」が、実写の揺らぎを楽しもうとしているような幸福な瞬間にはどうしてもみえなくて、本当に人間を完全に静止させようとして、それができないという悲しいショットにしかみえない。出来るなら死体や人形をそこに置きたいくらいに。それは「デジタルの地平にすべての映画はアニメーションになる」という自身の言葉からも分かる。徹底して実写に置いても画面からノイズを排除しようとする意思、いや、むしろノイズさえも支配して意図的に扱おうとする意思(このあたりは以前比較的まとめてかいた『アヴァロン』の論考「映画とアニメーションにおけるノイズの扱いについて(押井守の『アヴァロン』をきっかけに)」を参照のこと)。それは小津安二郎や、黒澤明のエピソードを挙げるまでも無く映画監督には少なからずある意思ではあるのだが、私としてはノイズや意図せざるものを積極的に受容しようとする映画に今、魅力を感じているし、私自身それを成していこうと思っている。そのあたりが、今最も諏訪敦彦にシンパシーを感じている理由である。
「デジタルの地平」にあっても「すべての映画」が「アニメーションになる」ことは決してあり得ないと断言する。
とはいうものの『紅い眼鏡』という作品、決して嫌いではない。れっきとした「押井作品」であるし、押井作品を俯瞰する場合にも、先日も記したように欠かせない作品であることは確かである。『イノセンス』もこの作品無しにはあり得なかっただろう。
天本英世の登場には感動するし、ディテールの畳み掛け方も押井の徴に満ちている。ただ、どうしても実写でやらなくても…と言う印象はぬぐいきれない。しかし押井組の声優陣をそのまま役者として配置していて、普段は声だけの存在である彼らに身体性が生じているという点は大きく評価できると思う。これが1番やりたいことだったのか。今の(肉体を使う)演劇出身の若手声優には出来ないだろう。この点は富野由悠季宮崎駿なども絶えず指摘しているところである。宮崎駿はそれを本職の声優ではない役者に声を当てさせ、富野由悠季は腹を立てながらも根気強く若い声優も使いつづけ、押井は声優を実写で登場させる。このあたりの対比も面白いだろう。あまり詳しい分野ではないが。