セルゲイ・エイゼンシュテイン『イワン雷帝』第1部1944年、第2部1945年/ソビエト をビデオで

最初のクレジット、渦巻く煙りに映し出されるタイトルを観てこれはただ事ではないと感じた。
第2部の終盤、宴会のシーンに入るや否や、突然のフルカラー。モノクロとカラーではライティングがまったく別物であることを物語る。まさに色の洪水。仮面をつけた道化が踊り狂い、赤と黒の装束をまとった者たちが、それを囲み、狂う。色彩のモンタージュ。息子に皇位を取らせようと半ば常軌を逸している伯母の息子、つまりイワンのいとこであるウラジーミルが、酒席の冗談で肯定の装束を身にまとい部屋を出る光景、一瞬挿入されるうち捨てられた道化の面、そして外に潜む暗殺者、それを発見しブルーの照明に照らされるウラジーミル。白痴であるウラジーミルはまもなく肯定の身代わり「操り人形」として、同時に母の「操り人形」として、無残にも道化としての生涯を終えるだろう。
もともと『10ミニッツ・オールダー』のゴダール篇『時間の闇の中で』の最期であり最後の「映像」としてこの作品が引用されていて、そのイマージュが美しく、恐ろしかったのがあまりにも印象に残っていたので、この『イワン雷帝』をデッキに挿入したので、ゴダールがこれを引用した動機を探ろうと観ていた部分も少なからずある。引用されたシーンは道化が踊り、周りの者たちが楽しそうに道化に抱き着いている、かなり短いショットである。
主人公であるイワン雷帝の、同情すべきも、徐々に強権化していく姿、は製作時期から見てスターリンの姿とダブらせているのだろう。製作を中断され、結局エイゼンシュテインは亡くなってしまい、完結篇である第3部が燃やされてしまったのは大きな損失である。これだけの理由で私はスターリンを憎める。未完の作品。映画史にはこのような悲しむべき損失が多く付きまとっている。映画は、フィルムは、モノであるのでこれは絶対に避けられない運命でもある。思えば映画というものはすべて中断しているといえるだろう。映画が現実を映し出すものであるとすれば、映画は物語であってはならない、つまり始まりと終わりがあってはならない。しかし、どこかからか始めて、どこかで中断、終わりを設定しなくてはならないのだ。ゴダールがこれを引用したのはこういった理由からだろうか。
モンタージュ」の視点でこの作品を観るとするならば、最も目を引くのは『戦間ポチョムキン』の「オデッサの階段」のような多層的なものの接合を以って幹となるイメージを構築していくような印象はあまり受けなかった。今観ると王道とも感じれられるような繋ぎ、アップと引きのスムーズな流れで、物語とその状況を俯瞰するように流れていく。とはいうものの、屋外のシーンが第1部の戦闘シーンくらいのもので、専ら宮殿内での貴族との権力抗争が延々と繰り広げられていくので、ナラティブな面でも、画面に映し出される映像の面でも閉塞感、閉所恐怖症てきな雰囲気が付きまとう。
この作品で最も目を引くのはなんといっても、顔である。アップで映し出される、まるで歌舞伎で見栄をきっているような顔の連続。顔のモンタージュの映画であるといてもよいほどである。そしてそのアップにされた顔はしゃべっている者とは別の人間で、話者を見ることなく別の一点をじっと見据える。誰も皇帝とも、他の誰とも視線をあわすことはない。徹底してコミニュケーションが成立していない世界。人物は全員独白しているに過ぎない。その中でも最も印象的だったのはやはり第1部の戦闘シーンにおける、虜になった敵兵たちをいたぶるショットである。あの顔つきは忘れがたい。登場人物のすべてがこの虜たちの顔を模倣しているかのようである。第2部の冒頭の第1部のダイジェストシーンも多くは貴族たちの顔であった。
第1部のラストでよく分かるように手前の人物と後ろ側の者や人々との対比のさせ方が極端で、それが人物もちろんとくに主人皇位ワン雷帝の孤独ぶりが強調されている。先に挙げた人物の表情の極端さ、セットの装飾、衣装すべたが極端で、圧倒的ですらある。これを形式主義だと批判するのはたやすいが、どうなのだろう。すべては人間、イワン雷帝の孤立、孤独を際立たせていて、恐ろしくもある。
モノクロのショットとカラーのショットが混在していることで、モノクロのショットにおける、影の豊かな表情がよく分かる。皇帝のへやの壁に映し出される、地球儀と皇帝の横顔の影(皇帝の横顔のラインの美しいこと。)、常に皇帝の影は他の者たちより大きく壁に映し出される。影のとその主との関係が逆転してしまうかのような錯覚、人の列の影が等間隔で壁を横切っていく。
それとうってかわって、カラーパートで雄弁に語り出すのは、光である。先述のウラジーミルを照らす青い光(ダグラス・サークを思い出した、彼もまた影の芸術家であり後にカラーに移行した監督である)は言うもでもなく、モノクロでは映っている影の言い分け程度に存在していた蝋燭が鈍く輝きを放つ。古い時代のカラー作品の印象が大きく変わってしまった。これを観て黒澤明がカラーへ移行することを決意したというのも十分頷ける話である。
プロコフィエフの音楽が印象的で、第2部では途中歌劇の様相を呈してくる場面もいくつかあって、とくに酒宴のシーンは壮観であった。プロコフィエフといえばレオス・カラックスの『汚れた血』において、アレックスの電話の留守番メッセージに「ロミオとジュリエット」の一節が使われいたのが凄く印象的で、物語の暗示的意味も含めて素晴らしかったが、やはり盟友であるエイゼンシュテインとのコンビは堂に入っている。
これはスクリーンで是非観たい。そうでなくては意味がなかろう。