諏訪敦彦『2/デュオ』1997年/日本 をビデオで

これで、順番はバラバラになったが諏訪敦彦の長編劇場公開作の三本をすべてみた。この作品のみならず全ての作品において、諏訪は役者の向こう側に鏡、もしくはそれに準ずる映像を反射できる物を配置している。むしろ鏡がまずあって、それとキャメラとの間に人間が配置されているかのようである。鏡の意識的な配置とその使用はこの作品において最も分かりやすい形で使用されているブティックに勤める女は試着室の扉に張られた鏡によって、鏡に映った姿のみを我々に現すし、男はキャメラには背を向けることが多く、専らその顔、表情は鏡に映し出され我々に示される。この作品世界の中においてこの2人の男女は決して視線を交わしていないし、顔を向き合わせてはいないということである。2人の間の不可侵な関係がこの鏡の多用によって示されている。それぞれが冷静に自分の心情を吐露し、穏やかな表情を示すのは単独でキャメラ=監督=観客に向かって問いに応えるときのみである。
徹底したディスコミュニケーション、鏡相手にヒステリックに感情のその暴発のみを2人ぶつけ合う生活の果てに女は疲れ、突如姿をくらますのである。彼女は鏡とキャメラと観客のみ得るところから退場したかったのである。その後偶然発見されて披露したその部屋には当然のように鏡はない。窓もすりガラスである。
かくして、最後に女が元の家に戻ってきたとき、その姿見の鏡には罅が入っているのである。もはやこの2人の間には鏡もキャメラも我々観客の視線も要らないのである。

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ここからは、私とその作品をっている者にしか分からない話であるが、今からちょうど2年前にある作品を撮った。それはおおまかなプロットのみを設定し、その枠組みの中で、実際の撮影中に考えて発言、行動させるといったもので、全シーンワンカットで撮り、ラストシーンでその形式を壊す編集、音楽、エフェクトをかけたものである。撮影にあたり、まずそれぞれの役者にインタビューをその役で行い、それも作品の素材として使用した。彼らには全員役名には本名を使用した。
もうお分かりであると思うが、諏訪敦彦のスタイルと酷似しているのである。そして嘆かわしいことにこの作品の制作当時、私は諏訪の作品を一本も観たことがなかった。はじめて『M/OTHER』を観たのその1年以上あとのことであった。私はその作品を「ドグマ95」への自分なりの考察として作った。小気味良いカッティングでリズムを作らないこと、映画的リアリズムの問題などなど…。諏訪監督とは当然動機、目指したところに差異がある。私がこのような手法を取った一義的な理由はまったくの素人である役者にいかにして演技をさせ、演出を付けるかということであった。
はじめて諏訪監督の作品を観たときの衝撃は、このような個人的な経験に基づいているところが大きかったように思う。「すでにこういう作品が世にあったのか」というショックである。そして、諏訪監督の試みはフィクション/ドキュメンタリーあるいはメタフィクションといった枠組みを超えて、キャメラと世界、キャメラと人間、そしてそれを見詰める監督、あるいは観客の問題を扱っているものである。
そして最新作の『H story』。この作品が公開される前に制作、完成させた私の作品は「失敗」した。そして『H story』も意図的に「失敗」させそれを内包させた広がりのある、「映画」としか言いようのないものであった。彼と、なによりも映画の持つ器の大きさに天を仰いだ。私が前の作品で抱えた問題、逃げ出したくなった撮影状況をも、それ自身をも、包み込んでしまうような大きさが『H story』にはあった。
私は誰かがやったことをやるつもりはないので、諏訪敦彦という映画監督の存在は私にとても大きくのしかかっている。当然彼と私ではおかれている状況は大きく異なり、抱えている問題も違う。私にとって彼は超えるべき、もしくは迂回すべき大きな壁となって立ちはだかっている。
とにかく、諏訪敦彦の来るべき新作を一刻も早く観たいし、それが怖くもある。長編劇場作以外の様々な作品も観たい。
この場を借りて諏訪敦彦に対して宣戦布告し、極めて一方的にライバルであると宣言する。