戯言

miro_412004-04-22

●最近観た映画に関して(現在執筆中)となっていることが度々ある。はっきり言っていつ書くか分かったものではない。この前まで1ヶ月ほどまったくといって良いほど映画を観ていなかったのは、(現在執筆中)と記すことすら拒否したためだ。書くために観ているような感じがしていた部分がある。書くこと自体が目的ならばでっち上げだろうがでまかせだろうが言葉遊びだろうがなんでも書けるだろう。でもそれすらも書けない状態である。言葉を使って映画について語ることの困難さにいまさらながら直面したのかもしれない。それともただの不精、怠惰かもしれない。言い文章が書けないのは分かっているので、私の羞恥心が書くことを許さないのかもしれない。書く前に他の価値ある批評文を調べ参考にすることも出来るかもしれない。ただ単に、経験値が低くて今だその映画に関して語る言葉を持たず、沈黙を余儀なくされているだけという可能性は高い。ゴダールの言うように、映画を撮ることと映画について書くことが同義なのならば、それでも私の場合必死に書くしかあるまい。今はまだ、書ける映画しか書いていないのだろう。実は書くことがこんなだと思わせる映画のほうが今の私にとっては重要であるに違いないのに。観た瞬間に言葉を失い、次の瞬間から次々に言葉が生まれてくるような映画に出逢い、もう一度言葉によってその映画をリメイクすること。それが今の状況におかれた私が取り得る最良の方法の一つであろう。あと、もう一つ私に必要なのはコミュニケーション。真のコミュニケーション。多くの人がそうであろうように、私も自分の作品を撮っているときも他人の作品にかかわっているときもコミュニケーションが不全になっているを感じ、孤独、苦しみを感じる。映画を撮ること自体をもっと豊かなコミュニケーションとして成立させることが今年撮るであろう次作の課題の最も大きな一つである。
●あきらかにこれは、今読んでいる途中の『ゴダール/映画史』に「感化」されている文章だろうな。
●さて、そろそろ『鉄人28号』の第3話が始まる。