藤田敏八『修羅雪姫』1973年/日本 をビデオで

梶芽衣子の瞳はどうしてかくも冷たく、美しいのだろうか。女囚さそりでもこのような目をみせていた。「梶芽衣子のまなざしは何に向かっているのか」とかいった論文を誰か書いていないものか。女優・梶芽衣子論を誰か書いていないものか。
この復讐劇の傑作の傑作足る所以は、当然「怨み」なのであるが、この怨みがただ事ではない。雪の怨みはまさにア・プリオリなものであって、いかなる後天的な要因によってもかき消されるものではない。本懐を遂げることによって彼女はもはや存在意義を失い。あの断末魔の唸り声を上げたのだ。あの唸り声は自分の人生の空しさを呪うものでも、怨み故に殺した相手の娘の怨みによって殺される因果に対してでも、その娘の怨みが自らのア・プリオリな怨みには足元に及ばないことに対してでも、そんな怨みによって殺されたことに対してでも、今わの際にとうとう自らの何らかの感情を表現したのでも、もちろんなくて、それら全ての一般的な哀しみだとか虚しさだとかを超越して、この物語が完全に終わってしまうことの合図に他ならない。だから最後に雪があの唸り声を上げた以上、続編は作ってはならなかったのである。
梶芽衣子は、修羅雪姫は、さそりはいったい何を見詰めているのだろうか。私にはなにも見詰めていないのではないかと言う感じがしてならない。常に虚空を見詰めていている、もしくは見詰めている相手の遥か彼方を見詰めている。なにも見ていない。というより生まれながらにして盲目なのだ。だから、『〜怨み恋歌』での雪の目にはもはや魅力は無くなってしまっているのだ。現実を見てしまっているからである。何人かの男性を見詰め、貧民屈の人々とその死を見詰めてしまっている。
撮影は田村正毅。『〜怨み恋歌』も悪くは無かったのだが見比べてみるとこの作品での彼の撮影の見事さは一目瞭然である。白さが全然違う。梶芽衣子の顔を捉えた最初のショットからして尋常ではないのだ。
キル・ビル』のおかげでケーブルテレビの日本映画専門チャンネルでの特集が組まれ、そのおかげをもって私も観ることが出来たわけで、どうしても『キル・ビル』との比較というか「もとネタ探し」てきなことを自然に頭がしていたのだが、そんなこと敢えてする必要の無いくらいのことだった。リューシー・リューのオーレン・イシイのキャラクター造形どころの騒ぎではなく、Vol.2がどうなるのかはまだ観ていないので知らないが、『修羅雪姫』は『キル・ビル』の根幹を作っているといえる。おそらく『キル・ビル』に登場する全ての女性が修羅雪姫をフォーマットとする女の復讐の修羅の道をなぞっている。そして『キル・ビル』で自分を殺した者達を眺める4人と、『修羅雪姫』で夫を理不尽に殺された妻=雪の母が見詰める仇4人の構図はまったく一緒なのだ。クエンティン・タランティーノは『修羅雪姫』をきちんと観ていることは絶対に確かだ。
タランティーノは『キル・ビル』を深作欣二ではなく、藤田敏八梶芽衣子や、そして誰よりも小池一夫に捧げるべきだったのではないのか。