岩井俊二『リリィ・シュシュのすべて』2001年/日本 をビデオで

岩井俊二のどの作品も私は正直言って気に食わないのだが、この作品にはそれらのフィルモグラフィからもはみ出るような作品ではないだろうか。
「リアル」あるいは「リアリティ」と、それを映画で表象すること。この作品は一見リアリティを追及しているように思えるが、それを自己否定している。インターネットの上でのリリィ・シュシュのファン達による「ヴァーチャル」なやり取りと、「痛い」「現実」とが平行されて語られていて、痛くて不完全な現実は1999年年に滅亡していて「マトリックス(笑)」化していて、「ここだけがリアル」だと言ってしまう。ある種のリアリティを追求して撮られた映像もまるで多重人格者がそうなる過程のように、リアルを否定している。つまり私には岩井俊二の指紋であるオーバー気味の露出ややや甘いピントによる映像の持つ(思春期の心象風景を「リアル」に映像化したような)ある種のリアリティをも一度括弧にいれてそれらをもう一つの位相であるインターネット上のリリィ・シュシュをめぐる「場」との相対化によって、リアリティ保留の状態、もしくは直に現実として受け止めなくても良いような状態に持っていっているように思える。むしろリリィ・シュシュというこの物語最大のフィクションとそれをめぐるヴァーチャルな「場」というスケープゴートなくしては「リアル」を描けなかったのではないだろうか。と同じにこの作品の彼らもそのような「場」なくしては現実に存在し得なかったのだろう。そんな「場」を持てなかったリリィ・シュシュの最新CDを借りることを拒否された少女はそのために死んだのだ。
岩井俊二のフィルモグラフィからはみ出るような作品とは言ったものの、それでもこの留保のつけ方はいつも通りとも言える。夢みたいな話にならない変わりにその現実そのものを拒否するかのような振る舞いで括弧に入れてしまったのは、やはりこの監督の個性であり、美点であり、汚点であると私は思う。観てはいないのだが最新作の『花とアリス』においてはそのあたりのことはどのように処理されているのだろうか。
留保付きのおっかなびっくり状態ではあるが、岩井俊二がある種のリアリティの問題に向き合っているこの作品を素直に良かったと言おう。