ティム・バートン『ビッグ・フィッシュ』2003年/アメリカ @MOVIX六甲

「人生なんて、まるでお伽話さ!」久々に映画会社のあてがったキャッチコピーがなかなか堂に入っていると思った。
さて、ティム・バートンの新作は間違いなく傑作である。どうも最近私は「傑作」という言葉を使いすぎているような気もするが、傑作なものはしかたが無い。自分の語彙力の無さに恥じ入るのみである。
キャッチコピーの繰り返しではないが、バートンは徹底して御伽噺を紡いできた作家である。そのバートンのフィルモグラフィーにあって、この作品のラストのクライマックスは、とりあえずこれまでのバートンのフィルモグラフィーのクライマックスになっているといっても過言ではないのではないだろうか。古臭い言いまわしをすると、映画というもの自体が壮大な法螺話であり、まさにこの親父の話すことは映画、とりわけバートンの映画そのものに思えてしまう。そう思うとあのラストの父親の葬式のシーンの感動的なことといったらない。嘘と本当の境界を越えてとかそう言ったレベルに留まらず、まさにバートンの映画とわれわれの要る現実の世界とのいびつで幸福な関係そのものを示しているかのようにさえおもう。何しろその中にはバートン作品の中でも屈指のキャラクターであるペンギンを演じたダニー・デビートの顔も見えるのだから。
本当にこの作品はあのクライマックスの葬式とその前の父親のいまわの際のシーンに尽きる。息子がはじめて吹いた法螺に同調し、「現実」がそれまで父親が吹いた法螺と同程度のズレ具合で現実化する。と、同じにそれまでの親父の法螺の真実の部分がみえてくる。シャムだと思われた双子の姉妹の体が離れる瞬間、巨人の大きさが、それでもなお大きいものの、そこまでは大きくなかったと分かった瞬間、サーカス団長の、スティーブ・ブシェーミ演ずるもと詩人の実業家の姿が現れた瞬間、全てがバートンの作品全てが一気にもう1段階上に昇華された気がした。
この父親のような法螺吹き男は今までのバートン作品の系譜からすれば、世界と自分の存在との折り合いを上手くつけられず、孤独を享受するタイプのキャラクターになったかも知れなかった。しかし、彼には息子がいて、死に際しては全てが彼を包んでくれた。バートン作品においてこれほど幸福な最後を迎えたキャラクターはいない。
以前のように「ティム・バートン作品」というプログラムピクチュアを期待してみると少々、期待はずれな部分もあるかもしれない。バートンはこの作品でそれらからの脱皮を成した。とは言うもののそこかしこにバートンの徴はみうけられる、というか繰り返しになるが父親の話がバートンの作品そのものであるといってもいい。が、それが少し説話の中での座標が今までとは微妙に違っているのである。結局のところ最後まで厳密には実際のことと法螺話との境界が曖昧なままで良くわからないというのも現在のバートンの、映画に対する、世界に対する、現実に対する、態度であろう。