ラリー・クラーク『KEN PARK』2002年/アメリカ をビデオで

ラリー・クラークの作品はこれと『KIDS』(1995年)しか、つまりハーモニー・コリンが脚本を書いたものしか観ていないので、あまりなんとも言えないのだが、その『KIDS』に比べてこの作品が格段によくなっていることは確かなのだが、これがハーモニー・コリンの脚本の成せる業にも思える。この作品もハーモニー・コリン作品としてみると、作家ハーモニー・コリンのテーマが実に率直に見えてくる。一見「無軌道な若者」を描いた作品に見えるが、コリンの作品に貫かれている最も大きなテーマは父親、そして「母親」としての女性の不在であろう。母親だとか、姉妹だとかそういう肩書きはコリンの世界には存在せず、全ては等しく女であるようだ。この作品では『ジュリアン』でヴェルナー・ヘルツォークが演じたような父親モデルが、1人ではなく2人も登場する。
そして、ここで浮き彫りにされている「フィクションとしての家族の空洞化」は子供たちからのものではなく、親たちの問題である。
作品としては、ハーモニー・コリン監督作の影を追ってしまう。まず、冒頭のやや斜めに捉えられた郊外の道を少年がボードで疾走していく。かれはスケート場につくと、おもむろにカバンからデジカメをを取り出しスイッチを入れると、DVの映像以上に荒く処理されたそのデジカメからの画面にカッティングされる。オープニングクレジットが終わった後のスティル写真を使ってのモノローグによる人物紹介、冒頭で自殺した少年(KEN PARK)を中心にランダムに張り巡らされた人間たちの平行な物語進行。これが、ハーモニー・コリンが監督していないことが実に不思議なくらいだと言いたいところだが、微妙にそれとは違う。センスが違うと言ってしまったら楽なのだが、なかなかそれを描写できる言葉が見つからない。「コリンの方が映画を知っているからだ」という回答もあり得るだろう。
この物語の最初と最後をしめるKEN PARK。これをなんの象徴かと少し考え込んでしまった。彼のことを思い出す者もいればそうで無い者もいる。ラストシーンの彼の生前の数シーンはなにか象徴的レヴェルに還元されることを、この物語を、ただ上手くしめて、観客に膝を叩かせる(実際膝を叩いてしまいそうになる)ような物語への奉仕のし方を拒むかのような慎ましさで、最初と最後に添えられている。彼はただ、ガールフレンドの妊娠に怖気づき自殺したのか、それとも別の理由かそれはわからないのと同様、彼だけではなく、他の人物たちがこの物語世界に存在する意味はわからないということを、密かに告げているのだ。
ともかく、ラリー・クラークのそれとしてはもとよりハーモニー・コリンフィルモグラフィーとしても重要な作品であろう。