クリント・イーストウッド『ミスティック・リバー』2003年/アメリカ をビデオで

●何故劇場に観に行けなかったのだろう。行かなかったのだろう。あのころは観たい映画を観に行く金が無かった、と言うより残してなかった。
●泣き言はこの位にしておいて、何故多くの登場人物と、そして誰よりも観客、私がデイブをケイティを殺した犯人だと思ったかというと、そのようにこの映画は我々を誘導してたからだ。しかし、どこにその事実が描かれていたか、どこにも描かれてはいない。心理学的な、精神分析的な解釈をすると、カットとカットとの間に、そのカットの繋がりを観た後、そしてしばらくたってから少し咀嚼した後、我々がその事実を想像、創造、しかしながら捏造しているのだ。
しかしながら、これが映画における「物語」というものである。フィルムのどこにも物語などは映っていない。物語は常に我々の側にある。
しかし、必ずしもこの作品はデイブが犯人であることを我々に強いてきたばかりではなかった。ショーンが1人、デイブは犯人であるということに疑問を感じていたことはただの感情的な部分からではなかった。とかそういうものでは無くて、それはサベージ兄弟に車に乗せられるシーンが完全に幼い頃2人組みに連れ去られるシーンの反復になっていて、つまりこれはデイブは犯人ではなく、またしてもここでは被害者であり、また1人のデイブが死ぬと言うことを私たちに教えていたにもかかわらず、その徴に気づかなかった我々観客や、ジミーたちによって葬り去られてしまうのである。もっとその徴はあったのかもしれないが、私にはことの直前の最も大きな徴にしか気づけなかった。そしてそのとき平行モンタージュで真犯人が割れていく残酷さ。我々はデイブに謝るしかない。遅すぎたのだ。
かといって、ジミーにつるし上げられている際のデイブの言葉はほとんど真実であるといってよかろう。ケイティに感じた「殺意」も本当だろう。だから序盤のバーでのシーンでケイティをみつめるデイブの視線には「何か」があったのは間違い無い。しかし、デイブはセメントに名を書ききれなかったように、ケイティにも何もせず、挙句車で連れ去られてしまうのだ。
そうもおもうと、誰かが乗っている車に続いて乗りこむ姿をフィルムに収められた人物として、ケイティの名も挙がる。彼女が乗った車にはすでにブランドンが乗りこんでいたのだ。そしてケイティを殺したのは彼の弟たちである。
ところで、デイブが観ていた「吸血鬼映画」あれが観たことあるような無いような。一瞬『ザ・フォッグ』にも見えたのだが(巨大な十字架を振りまわしているのが見えたとき)、あれは吸血鬼映画ではない。気になって眠れないではないか。