黒沢清『カリスマ』1999年/日本 をビデオで

黒沢清はフィルムを通してどの程度本気でメッセージを発しようとしているのかが量りきれない。例えば「世界の法則」だとか「あるがまま」だとか「生きようとする力と殺そうとする力」だとか。照れ屋なのかぶっきらぼうなのか、ひねくれものなのか、ともかく私が目の当たりにしたフィルムは、とにかく奇妙でいびつで、そういうナラティブな読み、分析をただひたすら拒否している様に見えてし方が無い。結局観た後にはなにか奇妙なものを観てしまった。ただ、観る前と観た後では明らかに「私」は少し変わってしまっている、観る前の私にはもう戻れないという漠然とした気持ちである。
黒沢清はあるカットを生かすか、作品全体を生かすかの選択に迫られたとき、どちらも生かすという行動に出ているのだろうということははっきりとわかる。
昨日観た『ニンゲン合格』でも引っかかったのだが、車のシーン。フロントガラス越しに2人を捉えるショットが実に奇妙だ。フロントガラスに映りこむのは絶対にどちらの作品でも木々で、その影は走行音や周りの状況から相対的に観るに、スローモーションでしかもコマが落ちた感じで人物の顔を覆い隠す勢いで画面に広がっているのだ。さらに車といえば、即座にキアロスタミを連想させてしまうような車と空間の使い方も気になる。黒沢清における車というだけで、一個文章が書けてしまいそうだ。
何本か見てもうひとつ気になったのは、室内空間における扉や窓などの配置のしかたで、概ね室内のシーンにおいてロングショットが採用されるとき、人物は画面のフレームのなかに配置されているもうひとつのフレーム的な装置(入り口や扉や窓、それらは多くの場合開け放たれており、人々が出入りするためのものという役目はあまりおっていなく、我々の視界から出入りするという役目である)から出たり隠れたりするのだ。このことを考えると『回路』の観方も少し違ってくるように思う。