蓮實重彦トークショー

ちょっと今、記す/考察する時間がないので箇条書き

  • ゴダールのいうように「映画生誕100周年」が映画を殺すイヴェントであったように、100周年とかいう「記念」によって、小津を亡き者に、過去のものにしてはならない。
  • 人類は映画が嫌いである。「運動」、「変化」が嫌いである。だから、フィルムのどこにも映っていない物語をでっち上げる。この物語はフィルムの「運動」を悉く捨象していく。
  • 小津映画の女性は他に類をみないほど、憤る。肩に掛けた布を振り払う仕草(『監督 小津安二郎』より)
  • 小津映画における立ち上がる(立ち上がろうとする)人物の捉え方。いわゆるアクション繋ぎであるが、小津にみられる180度キャメラの位置が違っているのは特異である。(通常は同軸上でアップ→ロングである)
  • 小津映画の女性はよく屈む。そして物を拾う。そしてドサッと捨てる。なかでも三宅邦子の振る舞いは秀逸である。とくにその立ちあがる際の身軽さ。物を捨てる際の潔さ。『秋日和』における夫が方々を歩き回りながら着物をそちらこちらに脱ぎ捨てていき、それを悉く拾い、それを遂には夫の前にドサッと捨てる場面は、まさにバレエの振り付けである。演出である。
  • 女性がものを拾うシーンは極めて多い。そしてその後の処理のし方は、吉田喜重の聖なる女性(筆頭:原節子)/俗なる女性(筆頭:杉村春子)の区分にしたがってみれば、前者はぱっと捨てる、どこかに措くのに対し後者は『東京物語』において、杉村春子が拾ったがまぐちのようにいつまでも持っている。
  • では、このような180度のアクション繋ぎや、バレエの振り付けのごとき演出などには、どういう「意味」があるのか?意味などない。それはちょうど戦後の美の価値構造が(戦前ならば「天皇のご尊影」を中心に意味のある美の構造が存在するが)何ら「中心」を持たずそれぞれにバラバラに無価値になったのと対応している。小津はその現象を映画の構造そのものに採用している。小津は残酷な人である。
  • 『監督 小津安二郎 増補決定版』は決して決定版ではない。いつまでも「決定」にはなれない。私自身未だに小津がよくわからない。
  • 東京物語」について
    • 笠、東山夫妻の家族構成が奇妙である。小津映画の家族はたいてい父1人、娘1人などの2人で構成されているのに、子供が5人もいるのは異例である。大阪の息子に至ってはまるで蚊帳の外である。しかし最後は義理の父と娘が残される。そのために用意されたのではないか。
    • 原節子の最後の「とんでもない!」という言葉の謎。何に憤っているのか。5人も子供がいる夫婦に対して、それだけ愛し合った夫婦に対して、私は未亡人な上に1人も子供がいませんが?!という主張か?それとも…。ともかく、その際に原節子が見せる表情の変化、これこそが「運動」である。テレビはこの「運動」を捉えてはいない。最高のテレビディレクターでも最低の映画監督に劣るのはそのためである。

もっと他に何か言ってたような…どなたか補足してください。