M・ナイト・シャマラン『ヴィレッジ』2004年/アメリカ @伊丹東宝プレックス

未だ、シャマランが一体映画において何を成したいのか、いまいち掴めないのだが、ひとつだけ言えることは極めて奇妙な作品を撮りつづけているということである。前作『サイン』でその奇妙さは頂点に達し、ヒッチコックだとか、デイビッド・リンチだとか、ジョージ・A・ロメロだとかの影響だけでは決して語りきれない奇妙さがある。シャマラン自身はインタビューなどで「物語」、「メッセージ」の重要性を語っているが、正直そのようなことを真剣に考えているのかは眉唾物である。映画会社の生真面目な売り方を尻目にほくそえんでいる様にしか私には思えない。
そんな、映画会社の売り方とは裏腹に、シャマランの映画からはまさしく「ヘン」なオーラが漲っていて、それは『サイン』から引き続き出演している、ホアキン・フェニックスの間抜けな表情を見れば一目瞭然で、ホアキン・フェニックスには是非これからもシャマラン作品に出演してもらいたいと思う。
シャマランの「ヘン」さの1つは、演出の緩急のつけ方の「ヘン」さである。通常丁寧に映画いてしかるべきようなシーンをさらっと演出したかと思えば、些細なシーンを馬鹿馬鹿しいまでに演出してみせる点、そして「ホラー」ではなく「ショッカー」的な演出を堂々と恥じらいも無くやってしまう点、やはりおかしい。例えば、ルシアスとアイヴィーがお互いの愛をはじめて確認するシーンの長々と固定キャメラで背後から捉えられるカットの「適当」さと、この作品で初めて「語ってはならぬ者」が登場する場面での間一髪でルシアスがアイヴィーの手をとり地下室へ逃げ込むシーンの仰々しさ(これらは私は肯定的に述べている。念の為)。さらには「語ってはならぬ者」が初めてフレームの中に姿を現すシーンのなんとも言えぬ演出。こそして、これは『サイン』に引き続いていえることであるが、最初ははっきりと姿を現さず、徐々に全貌をあらわすという流れの演出上の要請でそうなったのであろうが、そのリアリティが「川口浩or藤岡弘、探検隊」のそれまでに至ってしまっていて、それらの「化物」の表象の陳腐さとあいまって、ほとんど安い見世物の域にまで達している(これも私は肯定的に述べている!)
ここまでいくと、シャマランはインタビューなどで語っていることとは裏腹に、「何を語るか」などにはとんと興味が無く、「いかに描くか」を重視しているように思えてならない。そのくせ、脚本も自ら執筆してるというのもまた奇妙で、自らプロダクションを設立して自らプロデュースも行っている。本当にシャマランの真意が解りかねる。もう一度シャマランの全作品を見直す必要がそろそろ出てきたと思う。
そろそろ、『シックス・センス』のブレイク以来、4本目になるのだから、シャマラン論を一考してみるのも悪くないと思うのだが、シャマランのおかしさをきちんと語っている人間が案外少ないのはどうしてだろうか。かくいう私もシャマランにうってつけの言葉が未だ見つからず、「ヘンだ」、「奇妙だ」と連呼するにとどまってはいるのだが。
(↓9月14日追記)
毎度おなじみのシャマラン監督出演シーンについて指摘(と言うかツッコミ)をいれておくのを忘れていた。慎重に配置されたキャメラがもったいぶるかのように彼の顔をかすめて捉えてゆく。挙句薬棚のガラスに堂々と顔を映りこませる。この映画の中で、「撮影」に最も慎重だったのは言わずもがなの赤頭巾ちゃんとシャマラン監督のシーンである。全く何を考えているんだこの監督は。
そしてさらにもう一度だけ、シャマラン作品におけるホアキン・フェニックスは実に素晴らしいと言おう。ホアキン・フェニックス