今村昌平『人間蒸発』1967年/日本 をビデオで

寝る前にちょっと、と言う感じでは書ききれないのだが、やはりショッキングな作品である。作中今村監督はこれはフィクションであることをかなり強調していたが、それすらもキャメラという装置の前には平等にその表象を掠め取られていく。とうにフィクションとかドキュメンタリーとの差異というものは、その差異自体がフィクションであることに気づいているのであろうが、戦略として、ことさらフィクションを強調したのではないだろうか。ラストで今村は一応の結末をつけようと「登場人物」たちに人間が蒸発してしまうとはどういうことか、と総括を求めるが、その当初のテーマはもはやこのフィルムにおいてどうでも良いレヴェルに追いやれれていて、結局問題は、今、ここ(キャメラの前)、にいる人たちの、それこそ筆舌に尽くしがたい、様々な情念、運動のカオスに回帰され、もはや監督の手にはあまる状態であり、逆に言うならばこの映画を作る主体たる監督である、今村の制御から逃れようとするものこそ、この作品なのである。
だからこの映画の驚きは、あの姉妹の息詰まる舌戦の舞台がスタジオで行われていたことではなく、その後の該当でのもはや演出などという言葉では収集がつかないカオティックな状況を、それでも今村がフィクションだ、記録ではない、と言い張るその状況を捉えるいくつものキャメラとマイクという状況である。
今観ると当然、この「主人公」である「よしえ」の立ち居振る舞いは、その後に撮られるであろう映画、原一男ゆきゆきて、神軍』(1987年)の奥崎謙三のそれを思い起こす。ドキュメンタリーとフィクションの差異を無意味化しているものはずばりキャメラとそれに付随するスタッフなどその「撮影」という行為そのものであろう。いまさらこんなことを書くのも恥ずかしいくらいであるが「人は常に演技している」ということ。キャメラがいるときといないとき、「他者」がいるときといないとき、あなたがいるときといないとき、人は全く同じペルソナで振る舞っているとは誰も言い切れまい。そして、それぞれのペルソナが構造主義的に相対化されると、表層的な、他者から観た、「本当の自分」などという表現自体がナンセンスになってしまう。しかし、我々が観ることが出来るのはあくまでも「キャメラで捉えた真実」であり、キャメラに捉えられていることを意識した人の真実の姿である。
そのような意味で、この問題をより繊細なかたちで成したのが諏訪敦彦の『H story』であるといえよう。どうも諏訪敦彦の名前を挙げすぎていて自分でも気持ち悪いが、「生きること」と「映画を撮ること」とを切り離せ無いものとして、実にクールな姿勢で情熱的に考えているかれの映画はやはり少なくとも私にとっては1つの指針である。諏訪敦彦には意味論を通り越えて、キャメラで捉えるもの、全てを肯定するような力がある。
どうも当然のことを堂々巡りで考えてしまうのだが、1つ言えるのは、今に至っては、やはりフィクション/ドキュメンタリーの二項対立はもはや無意味で、その差異が無いとは言わないまでもかなり怪しい、それ自体がフィクションであることは、結論ではなくて、出発点であるということである。
このあたりのことは実は今年の卒論のテーマなので年明けには一応の中間報告が出来るだろう。