サム・ライミ『死霊のはらわた 2』1987年/アメリカ をビデオで

大傑作。この作品の時点でサム・ライミは『スパイダーマン』を完全に予告している。例えば鏡での一人芝居だとか、あらぶるキャメラワークだとか。「主観」ショットによる演出はこの時点で冴え渡っており、『スパイダーマン2』での蛸男の触手の主観ショットなど、彼にしてみればほんのさわり程度であろう。未だ見ぬ『スパイダーマン3』では、蜘蛛の糸からの主観ショットなどは当たり前の様に繰り出されるのではないだろうか。
さて、決して直に見ることができないものはなんであるかといえばそれは、世にもおぞましくもコミカルな死霊でも、時空の裂け目でも、原子爆弾でも、ホロコーストでもなく自分自身の姿である。そのことを強く意識させるのが「主観ショット」というやつで、えもいわれぬ痛快さで動き回るキャメラの映像はその主体が不可視であること、それを見て恐怖している他人の反応を見ることしかできないこと、そしてモンタージュ=視点の変更(これこそが映画にしかできないことである)によりその全貌を窺い知ることができるのは我々観客だけであることが、恐怖というか面白さになっている。いわば、映画というのは視点のゲームである。先日のジョン・カーペンター『ハロウィン』もそうだが、ホラーというジャンルは、視点や視界に対する深い考察なくしては成り立たず、これこそが「映画の(面白さの)本質」に直結しているという点で、最も面白い映画なのである。ホラーというジャンルによる映画の追求無くして『スパイダーマン』(特に2)の涙が出てくるほどの活劇は成り立たない。この作品を見ると、あの蜘蛛男映画を撮るための基礎体力はもう十分に備わっていることが解る。CGが上手く使いこなせれば誰でもあのような傑作を撮れるのではなく、サム・ライミだから撮れたということは間違い無い。
余談だが、塚本晋也は思っていた以上にサム・ライミから負っておるものが多いのではないだろうか。アニメーションの使用だけではなく、序盤でのブルース・キャンベルが吹き飛ばされる場面や、『〜1』でもあった、植物のつるが触手のように女を蹂躙する場面、ゾンビが背筋を伸ばすときの立ち居振る舞い、勇ましく立つブルース・キャンベルのバックのあの素晴らしい高速で沈んで行く巨大な夕日。挙げ出すときりが無いが、塚本晋也サム・ライミをかなり正しく消化したといえるだろう。