ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』2003年、デンマーク をビデオで

この映画は象徴的に作られている。当然だ。舞台装置の99%は省略され、記号化されている。抽象化されている。極めて自由度が高いようでありながら、すべての情報が実際のセットを起ててるよりも、実際の村でロケーションするよりも、はるかに高いけた違いの解像度と透明さで、われわれ一人一人の精神に働きかける。ラース・フォン・トリアーイデアをみせつける。それはこの作品の物語が極めて明快で、いささかも意外な展開をしないことからも伺える。
確かに、この村をアメリカのメタファーと捉え、ニコール・キッドマンを移民であるとか、はたまた神の子であるとか、そういったメタファーとして捉えることは可能であるどころか、意図しているところであろう。アメリカを人間社会であるとかにおきかえることも許されるだろう。それこそ神話や昔話の類と同列のものであって、全篇にわたる、御伽噺につけているかのようなナレーションからも伺える。これは、神々の話であもある。好きに組めるレゴブロックのようなもので、それこそ見るものの好きなように見ることができるという、一種の罠である。この罠にかかった者は、もはやドッグヴィルの住人である。少なくとも、トリアーはそうみなすだろう。
様々なメタファーとして機能するように、ノイズは悉く捨象されている。が、これはアニメーションと合いいれるところもない。やはりこれは実写しかできないものである。ある意味これは、表現主義のなれのはての一様式かもしれない。
さて、このフィルムから発せられる映像と音とに注目を映そう。
この映画は逆説的ではあるが、極めて映画史の定石に則った映画である。つまり扉、そして自動車の映画であるということである。
後者の自動車は言わずもがな、この作品の中にあって唯一完全なフォルムでその姿を現す装置である。もはや我々の前にあっては不可視になった壁であるが、自動車のみは例外で周りとの絶対的な隔絶を観る側にも保証する。車の中での出来事だけ、我々は安心して(気分を害することなく)観ることができる。自動車の移動手段、ここでは外部との連絡手段でもある。特別なキッドマンを除いて、すべてのものは自動車を使ってしか外部との連絡を果たしていない。ギャングも、運送屋も、警察も。つまり自動車はドッグヴィルの一部であってそうではないのである。
一方、扉は不可視であることによっていっそう存在感を放つ。俳優たちはにこの映画の「ルール」を守り、家に出入りする際にはドアを開け閉めし、ノックまでする。これはもうほとんど滑稽である。それらの動作にはぴったりと音がシンクロさせてあって、それがより滑稽さを誘う。俳優がドアノブをひねる仕草は最高に馬鹿馬鹿しくて、悲しい。壁の存在よりもこの扉の存在にトリアーはかなりこだわっているとみえる。さらに、この扉は無論自動車にもついていて、ラストでキッドマンが哲学者を撃ち殺し、戻って来たとき、はじめて可視のドアが音を立てて閉まり、このフィルムは幕を閉じるのである。
この「逃げ場なし」の映画にカーペンターの影をうっすら観てしまい、トリアー流のカーペンターのリメイクかともふと思うが。それは昨日彼の作品を観たことや、その他の状況に大きく影響されているためのものであろうと考えられるが、とりあえず記しておく。