青山真治『レイクサイド マーダーケース』2004年、日本 @三番街シネマ

夜中の人気ない湖にボートで漕ぎ出して、死体を沈めるシーン、この死体やそれを処理する事情などを超えて、スクリーンから溢れ出す、静謐な輝き。極めて映画的に素晴らしいと言ってしまってよいだろう。このシーンはセットで撮られたのではないだろうかと思う。そのことが極めて静謐な輝きを生み出している。不動の動き、つまりキャメラは常にフィックスでその視野にボートが入ってきてからというものの、このボートは漕いでも漕いでも全く動かない。視界の右上の方で向こうへ消えていったボートの影はやがて左手から侵入してくるだろう。キャメラが全く動いていないことを誇らしげに示すかのように、対岸の光は微動だにしない。周りにはそれ以外何もない。漆黒の闇。靄も霧もかかっていない。溝口健二雨月物語』でのあの舟を引き合いに出すのは、さすがにはばかれるが、ついつい出してしまいたくなるような素晴らしいシーンである。
観ているときから、この作品のレイクサイドという要素、女性の死体を沈めるという要素、それを隠すという要素、さまざまなものから、そしてそういう骨組以外から漂っている香りから、ロバート・ゼメキスの『ホワット・ライズ・ビニース』を思い出したが、案の定パンフレットにあったインタビューで、青山真治自身の口からそのタイトルが出ていた。結構好きらしいが、ゼメキスによるヒッチコックの下手なオマージュ作品であるそれよりも、青山のこれのほうが数段洗練されている。この作品もここ数日私がキーワードにしている「逃げ場なし」の映画である。ホラーとかサスペンスとかいうジャンルのほかに、「逃げ場なし」の映画というジャンルがあることをもう確信した。ここでいう「逃げ場なし」とは、監禁とか密室とか厳密なものではなくて、もう少し抽象的で地理的、物理的な状況よりも心理的、実存的、形而上学的な「逃げ場なし」の状況である。そしてこの逃げ場なしの状況にはたいてい、自ら半ば無意識に不可避に入りこんでいくものである。この「逃げ場なし」の映画として、ゼメキスのそれは明らかに失敗していて、特に一見よくできてたヒッチコックへのオマージュで満たされた前半が、フィルム全体を見渡すと、仇になっていることが今わかった。
薬師丸ひろ子が素晴らしい。表情の細かい綾までしっかりと捕らえきるキャメラ、それでもその視線には残酷さはない、あがめるように、尊ぶように、慈しむように、薬師丸の顔を捉える。万田邦敏の『UNloved』でも、ここまでしっかりと女優の表情を捉えてはいなかったと思う。
映画において、この作品の設定、プロットは実にしっくり来るものである。最高の演技を求められる場である、入試の面接、そのリハーサル風景を導入部に持ってきたのはそのためである。もはや家族やその家族が一丸となって、一同に会して何かの儀式を執り行ったり、なにかに挑む場というのが、最高の演劇的空間であることは指摘し尽くされている。さらにこの主人公夫婦は別居中であり、仲のよい夫婦を演じなければならない。ここまで教科書的に要素がそろえばそれをどう扱い、導くかが問題になるのだが、本作において子供は結局埒外に放り出されている。未知なものは未知なままで、この作品も登場人物もその謎を探ろうと葉決してしない。むしろ謎は殺された女性の側に委ねられた。その宣言があのラストであろう。彼女の死体とその死を隠すことが、この演劇空間の綻びを隠すことなのである。
少し混乱してきた。
さすがに柄本明ローリングストーンズのTシャツを来ているのは、「え?」と思ったが、それでも青山真治の作品から私が過剰に受け取ってしまう嫌さをこの作品からはあまり感じなかった。逆にいえばそれだけ洗練されたのか、それとも、本作ではそのあたり抑えているのだろうか、あまり近作を観ていなかったので結論は出せないが。
映画『レイクサイドマーダーケース』(公式サイト)