トニー・スコット『マイ・ボディガード』2004年、アメリカ @梅田ピカデリー 4

我々の世代の者たちにとって、タランティーノが一種の教祖だった時代があったので、昨今のトニー擁護運動が始まる前に、とっくにリドリーよりもトニーのほうが面白いというのは常識なのだが、その話はまたややこしいのでこの程度にしておこう。どっちにしろ誰かの影響であることにはかわりないのだから。
トニーの映画は一見めまぐるしくて、物事を見据えるということを回避しているように見える。定義もせぬまま一部のアメリカ映画監督を「MTV的」であると、批判あるいは擁護しているが、トニーは不特定多数のよくわからない定義を採用するならば「MTV的」な映像を紡いでいるとみなされるかもしれない。しかし、デイビッド・フィンチャーがそうである以上にトニーはMTV的ではない。
確かに、トニーは物語をエモーショナルな次元で語ることにさほど興味を払っていないかにみえる。矢継ぎ早に畳み掛ける細かなショットは、一つの運動をじっくり見据えるものでもなければ、グリフィス以来続く運動の分解・再構成の手付きでもない。役者のエモーションを括弧に入れた運動そのものの畳み掛けであり、その運動にはキャメラの運動も含まれる。あるショットの運動が終わる前に次のカットに転じる。「息もつかせぬ」とはこういうことを言うのだろう。
トニーやイーストウッドは空撮が好きだ。もはやオープニングでの空撮の畳み掛けに幾分凝ったタイトルを重ねて行くのはトニーのトレードマークになっている。
複数のキャメラで一気に撮られた映像をリズム良く畳み掛けるのは、ともするとラース・フォン・トリアーのそれを思い起こしそうになるが、そこまでの冒涜感を感じないのはモチーフのさでだけでは説明しきれるものではなく、「運動神経」とでもいおうか、リズム感とは少し違うモンタージュの作法の差である。