塚本晋也『ヴィタール』2004年、日本 @梅田ガーデンシネマ

今日が初日ということで舞台挨拶もあった。これ以上言うと嘘吐きになってしまうので、次こそは『空とぶ鉄男』やります、とのこと。昨日も別の新作短編(韓国資本とのこと)の撮影で腰を痛めているとのこと。こちらはまたしても自ら主演。
さて、本作でなによりも目を引くのは、解剖とそれを克明に捉え、命と身体への畏敬の念があふれ出ている素晴らしい映像、ではなくて、それらをヴィヴィッドに捉える色鮮やかなフィルムである。双生児やヒルコは番外としておいておくとして、塚本晋也の作品としてここまで鮮やかなカラー映画を撮ったのは初めてである。ここまで色彩をはっきりと、今までの陰影以上に押し出すのはその奥へ奥へと玉葱の皮を1枚1枚剥がすように内部へと突き進まれる身体と、同時進行で浮かび上がる等価値な幻想、過去のヴィジョンたち、それぞれが鮮やかなカラーを要請しているのである。
決して身体や死体へのフェティシズムではない、愛する肉体、愛するものの肉体への傾倒、これはセックスであり、対話であり、つまりコミニュケーションである。
「私」やその身体は誰のものかという倫理学的な見方からすると、塚本は一貫して自ら制御しきれず暴走し出す身体性というテーマが全作品に一貫して流れている。その流れで見るとこの映画の主人公はまさに自然科学的には死んでしまった涼子である。彼女は死してもなお、自らの身体から解き放たれる、まばゆき記号を当然制御することは出来ない。この作品で最も暴力的かつエロティックなのは彼女であり、彼が見た幻想、現実は彼女の脅威的なパワーによってもたらされる、一種の暴力、愛しき暴力、エロティックな暴力である。