ジョン・カーペンター『パラダイム』アメリカ、1987年 をビデオで

『マウス・オブ・マッドネス』がカーペンター的恐怖の一つの集大成的なものであると同時に、一つの句読点であり、ターニングポイントであり、終着駅であり、そしてカーペンター自身がある意味、その後の作品群を見ると「逃げ場なし」の状況に陥っている(いい意味でも悪い意味でもカーペンター作品は変わらない)とすれば、この『パラダイム』もとい"PRINCE OF DARKNESS"は(『パラダイム』も悪くない邦題だと思う)カーペンター的恐怖の枠組を自ら掘り返そうと、あるいは掘り返さざるを得ない逃げ場なしの状況へ追いこまれた話である。
まずなによりもこの物語の中で、かろうじていかにも映画的な神父がそうであるのを除けば、誰一人戦う者ではないということがそれを物語っている。彼らは自らの意思ではなく、半ば拒否しがたい依頼によって、「悪」とはなにかを研究するチームなのである。悪と戦うのではなく、あくを知る、よりよく知ることが目的である。そしてこの「悪」もしくは「闇(DARKNESS)」あるいは「恐怖の根源」こそが、カーペンターの恐怖哲学そのものの開陳であることはいうまでもない。これはメタカーペンター映画である。
この作品の示す悪はカーペンターの映画全てに「姿を現す」。カーペンターの恐怖の対象は実体がないのであるが、この「風のように」実体がない恐怖を官能的なまでにフィクション化している現代科学で実体化させようとしている。科学が恐怖を解明するのを待っていたかのように。カーペンター映画の恐怖の対象は「もの」ではなく「こと」である。恐怖の現象学
そのような実体のない恐怖、「人の心の中にある闇」を映画や物語やその他の表象をとおしてかたちにしてきた。そういう意味では映画は一種の祭である。
実体のないことそれ自体が恐怖であるところの恐怖をかたちにすることは、恐怖を解消しようとする行為と同義である。が、ここにいたってカーペンターは実体のない者を実体のないままに描き出そうと試みている。この映画だけではなく、すべてのカーペンター作品に出てくる恐怖の対象はすべて唯一にして多であるような根源の一つの表象の一形態に過ぎないのである。
カーペンターがこの映画で量子力学を持ち出しているのは、その実体の無さ、「もの」を究明すると「こと」でしかないと結論づけざるを得ない、この眩暈のするような科学にカーペンターは光を見たのだろう。
それこそが『パラダイム』である。このパラダイムは決してシフトすることは無いが、まるで多世界解釈のように、別のパラダイムが無数にあること、そしてそれが唯一なるこの世界においてはあくまでも実体がないこと、常にシフトの可能性を孕みながら、実際シフトしても、そのこと自体に気付けないような、波動関数の収縮のような、恐怖、眩暈のする恐怖を、カーペンターは試みた。おそらくカーペンターはヒッチコックがそうであったように、ホラー作家の資質の一つである恐怖への感受性はあまり強くない部類の人間ではないだろうか。むしろ冷徹に恐怖とはなにかを探り、自身ではまだこれでも怖くないぞ、とつぶやいているのでないだろうか。

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