吉田喜重『血は渇いてる』日本、1960年 をビデオで

佐田啓二三上真一郎の使い方にコノテーションが、つまりスクリーンの外から来る意味、つまり私が勝手に付け加える意味、そして吉田喜重も意図的に配したであろう意味、それと同時に、とはいうもののこれが松竹ヌーヴェル・ヴァーグという映画会社の打ち出した新しいトレンドである、という前にまぎれもなく(意かにテレビ等の影響で斜陽であったにせよ)まだ小津安二郎も存命で『秋日和』を完成させ(jmdbによるとこの『血は渇いてる』の1ヶ月後)『秋刀魚の味』をも控えているところの、「松竹映画」であることもまた事実であり、この二つの要素は円環構造にもなっている。
さて、この佐田啓二が自らのこめかみに銃を付きつけ悲壮な顔をしている大きなポスター。これこそがこの映画の主役といっても良いほどの存在感を放っている。ラストでの崩壊した彼の写真の瞳が見つめているものとは、この映画自身であり、なにも見つめてはいないともいえる。写真がその目が物語を越えた迫力を持って、肉薄してくる。それを捉えた凄い映像である。そしてこの映画自身がそれを恐れたかのように、ラストで破壊してしまうのである。しかしなお、その目はこちらを、こちらと映画との境目をじっと見据える。
この物語で佐田啓二は死んでしまったのもかかわらず、その不在の相手の悲痛な視線を受け取ってしまう。これは見事な演出である。と、同時に写真という現象へ畏れをも伴う。思えばこの映画の中にあって写真が強き力を発揮したのはこの巨大ポスターだけではなく、三上真一郎の捏造した写真の数々もこの映画の中では全く姿を現さない「映画」よりも遥かに強力な力を持って現れている。佐田啓二は自らの弾丸で死んだように、妻はフラッシュで崩れ落ちる。
あと、どうでもいいことかもしれないが、私の印象では「正しい日本語」を極めて厳格に使っているという印象の吉田喜重監督の作品のタイトルが「い」抜き言葉なのは一体どういうわけなのだろうか。

吉田喜重 DVD-BOX 1

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