アンドレイ・ズビャギンツェフ『父、帰る』ロシア、2004年 をビデオで

極めてシンプルに幾つかの主題が配置されていて、シンメトリックというか螺旋構造というか、永劫回帰というか…。
冒頭の鉄塔と其の下に広がる海と、終局のの鉄塔と其の下に広がる大地との配置、垂直方向をよく意識した、神聖さすら仄めかしながらそびえたつ2つの鉄塔、そこにはまず母親が登り、継いで父親が上るだろう。少年は決して自力でそこから降りることは出来ない。
このフィルムをシンメトリックであると断言できる決定的な運動がそこには映っている。結局1人だけ鉄塔から海に飛び込むことの出来なかった弟は、次の日友達連中、さらには兄にも馬鹿にされ喧嘩になる。そして、次の瞬間、疾走が始まる。画面の右から左への方向への疾走が始まる。そしてこの疾走はやがて無人島で父親を拒否し、とうとう本気で逃げ出そうと疾走する映像によって反復されるばかりか、今回は逆方向に、左から右への疾走という決定的なズレによって、フィルムは前半の展開を正と仮定するならば負の方向へと向かって、とうの昔に折り返し地点を過ぎて疾走を続けていることに気付かされる。
ならば折り返し地点はどこだったのか。折り返し地点を決定的に宣言するような出来事は映ってはいない。というか、そのような「点」などというものは絶対的に表象不可能ものとしてあるのかもしれない。象徴はいたるところに見られる。例えば父親が兄に腕時計をあずける場面は決定的で、その後の兄の動きは、やがて父親が亡き者になったあと、彼を模倣しだすだろう。亡骸を乗せたボートを漕ぎながら、彼の腕にちらりと腕時計が見える瞬間は戦慄すべきものである。しかしこの瞬間が折り返し地点と捉えるのは早計であろう。折り返し地点、折り返しという運動は、それこそ冒頭に鉄塔が映し出される前から始まっており、後半の鉄塔の後も続いているというのが妥当であろうか。
シンメトリックなフィルムであると断言したが、このフィルムは、始まりのように鉄塔の場面で終りはしない。この反転現象はその先に、フィルムが回り始める前の真の闇の部分に、フィルムは突入する。あるいは、再び新たな反復を開始する。だからこの最後の映像達は父親が現れる前のことを暗示しているのだろうし、なによりもラストの写真群が兄が撮影した写真だけでなく、かつての風景を写したものも混じっているのがそれを示している。
闇を映し出すひとつの方法論を見た。

父、帰る [DVD]

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