ヤン・シュヴァンクマイエル『ルナシー』チェコ、2005年 @シアター・イメージフォーラム

フィルムの冒頭で彼が出ているからというわけではないが、ヤン・シュヴァンクマイエルの集大成的作品とみてもよいのではないだろうか。いい意味でも悪い意味でも、もっとも「映画的な」作品であるということも出来るかもしれない。依然として『悦楽共犯者』が彼の最高傑作であると私は思うが(革命的傑作である)、このフィルムは映画として何らかの重要な位置をヤン・シュヴァンクマイエルという映画監督が占めていることがもはや疑いようの無い事実であることを今更ながら示している。
もっとも「映画的な」と言ったのには少し語弊があるかもしれない。物語としてしっかりしすぎているが故に、これまでの数々の素晴らしい短編作品などを見れば分かるように、それらのマテリアルとしての、すなわち(如何にそれが政治的な寓意などが込められていようが)即物的な、生々しさやユーモアや、魅惑的なオブジェの動きと言ったものが、物語の文脈に回収されてしまって、それ本来の豊かさを自ら削ってしまっているような危惧も感じる。特に真骨頂であるアニメーションは文脈でこの主人公なり登場人物なりあるいはこの物語なりの狂気を象徴するものとしてその役割を閉じ込められている。
ただフィルムとして、素晴らしいショットが多々あって、特に馬車の窓から見える風景の数々が素晴らしい。逆にヤン・シュヴァンクマイエルという映画監督はここまで生身の人物、事物をそのまま撮ることが出来たのかという発見がある。また、燃盛る木や諍いを起こす男、といった素晴らしいショット。今作で素晴らしかったショットはいずれもアニメーションの部分ではなかったよう思う。シュヴァンクマイエル自身も「映画」を撮っているという自覚があったのではないか。それにたいして多少なりともジレンマも感じていたのかもしれない。そのあたりが冒頭の、芸術は死んでいる、これは芸術ではなくホラーだ、という宣言になっているのではないかという気がする。
現実と空想、アニメと生が曖昧であるという指摘が今まであったし、私もそう思うのだが、今作にあってはその両者は乖離されている(よく演出されているという意味になる)。そのことはさきほど触れた冒頭のシーンでシュヴァンクマイエルとうごめく舌が別カットでしか映されることが無く、同じフレームの中で示されなかったことによく現れている。かつてのヤンは人とモノを同列に、同一カットの中で動かしていたのだが、今作ではそれは無かった。しかしそれと同時にある種の映画的な質感を獲得し得たことも事実であるし、実際この作品は傑作であるとそれでも私は自信を持って宣言することが出来る。これは非常に大きなジレンマである。なによりも今こうして考えるにヤン・シュヴァンクマイエルというジャン=リュック・ゴダールクリント・イーストウッドと同世代の男はこうなることを決して望んではいないような気がする。