黒沢清『叫』日本、2006年 @TOHOシネマズ錦糸町

先月完成披露試写で観たとき、正直言って失望したのだが、後から考え直せば考え直すほど、さらにテレビなどでスポットを観れば観るほど、やはり凄い作品だったのではないかという考えがふつふつと湧いてきて、一般公開になったらもう一度観ないわけにはいかないという思いで、劇場に向った。思えば試写会のあった全電通ホールの上映環境は決して良いとはいえないものである。今日観て特に思ったのはとりわけ音響面であった。
『CURE』と『回路』の流れを汲むと言ってい良いであろうこのフィルムは、果してまたしても世界の終りを描写した(その点で『カリスマ』も入るだろう)。黒沢清はたったワンショットで、いとも簡単にできるぞとでもいわんばかりに、世界の終りを描写して見せる。ラスト直前の役所広司が道路を彷徨うショットである。
横移動のキャメラが本当に素晴らしくて、ゴダールの『ウイークエンド』や『ヌーヴェル・ヴァーグ』を思い出した。質感としては前者に近いのだが、要所要所での映像のリズム本位で考えられたかのような、シーン構成(冒頭の殺人現場、最初の犠牲者の真犯人を取り押さえる場面)。は後者の映画全体を貫くような横移動を思いだした。そしてその真犯人を取り押さえるシーンや医者が息子を殺すシーンでは、相米慎二を思い出さずにはいられなかった。このフィルムに刻み付けられている殺人シーンはどれも素晴らしくて、「殺人」という出来事というよりも人を殺すということ、そのものとでもいうべきものが映っている。さらに、医者が役所広司に追いつめられて建物から落下するシーン、このワンショットが凄まじい。人を落下させたら黒沢清は天下一品である。
さて、初見で失望したショットというのは、「見せ場」とでもいうべき、赤い服の女が迫ってくる場面である。3度目の登場シーン、はじめて屋外で姿を現すシーンである。葉月里緒奈が一つ目の殺人現場で吉岡に迫ってくるショット。これは合成である。役所広司と葉月里緒奈がキャメラから異なる距離にいて、それにもかかわらず、両者にピントがきちんとあっている。そして葉月とその他の風景のパースペクティブが微妙に違う。彼女を合成して画面にはめ込んでいるということである。単純に考えて「幽霊」としての異質感、違和感、恐怖感を演出しているのだといえるのだが、初見ではこの合成がどうしても腑に落ちず、そのせいで他の凄まじいといわざる得ないショットの数々まで、やや否定的な印象を帯びさせてしまった。しかし、今日観たときは、そこまで、それこそ憤慨してしまうほど嫌だ、駄目だ、決定的に良くない、とは思わなかった。しかもやがてこのシーンでのズレは後半吉岡が女の肩に手を置くショットによって、一気に昇華されるのである。ここでは「幽霊」としっかり触れ合っているのだから。
つまり、私は黒沢清は決定的なことは必ず1つの画面の中で実際にやって見せる作家であり、それこそが魅力であると思っていたのに、決定的であるはずの「幽霊」との接近遭遇の場面で、そのときは「陳腐」だと思った合成を用いていることに失望したのであった。今回それは少し解消されたのだが、されでも完全に払拭されていないと宣言しておこう。