ポール・バーホーベン『ブラックブック』オランダ/ドイツ/イギリス/ベルギー 、2006年 @テアトルタイムズスクエア

この前観た『善き人のためのソナタ』(奇しくもというよりはむしろ当然のようにどちらにもセバスチャン・コッホがメインキャストである)もそうだったが、冷戦やこの第2次世界大戦が終わったからといって何もかもリセットされるわけではない、というごく当たり前の事実が、「物語」という始まりと終わりがある形式に収められた瞬間にそれが隠避されてしまうということに対して抗っている。だからこそこれらの「終り」の無い「物語」は強く響くのだろう。これらの物語は決して美しき閉じた宇宙などではなく、我々の座っている席と地続きのものであると迫る。
待望のバーホーベン(ヴァーホヴェンと表記した方が良いのか、もとの発音はどちらが近いのだろう)の新作ということで、特に序盤は彼の作家としての指紋をいちいち探してしまって溜飲の下るようなブラックユーモアを危うく見出し捏造しそうになるが、そうではないのだと、エリスたちを乗せたボートが蜂の巣になり、それを一人逃れた彼女が茂みから、ドイツ兵が遺体から金品を取っているのを見詰めるショットで気付く。バーホーベンがこの作品を「自らの魂を救うために撮った」というのはハッタリではないのだ。これは最新作ではあるが、このフィルムこそバーホーベンの原点とでもいえるものではないだろうか。凄惨に撃ち殺される人々、累々の死体、男女混合での裸体、そして大量の糞尿を浴びるエリス、それらがこのフィルムでは私も含めた数寄者のための上質な悪趣味ではないことはあきらかで、ああ、今まで観てきたあのシーンやこのショットには実はこのようなバックボーンがあるのだな、と思った(例えばやはりゾンビ映画スプラッター映画にもこのようなバックボーンがあることはドキュメンタリ映画『アメリカンナイトメア』などで指摘、確認している、無論バーホーベンの本作も、ゾンビ・スプラッターも、その認識だけに大人しく収めてしまうのは避けなくてはならないが)。
ああ、それにしても終盤あの群衆の中に、インシュリンで朦朧となったエリスが、テラスに背後からぬうっと現れ、そこから落下するショットの美しさよ。