田中登『(秘)色情めす市場』日本、1974年 @ラピュタ阿佐ヶ谷

この、絶望感と、ユーモアと、なぜかしら仄見える希望に充ちた映画は何であろうか。これが人が生きるということなのだ、と迫ってくる。
西成の職安のシャッターと共に幕をあけるこのフィルムは、その幕開けによって「何かが始まった」というような昂揚感を生殺しのように観るものに禁ずる。そして股を開き座りこむ芹明香がこちらをにらみつけるのは、まさに言葉にならぬ求めであり、拒否である。彼女や彼女たちに安易に醜くもを手を差しべようなどしようものなら、しっぺ返しを食らうのが落ちだ。
このような傑作フィルムにおいて、作品の中では特に何も変りはしない、普通にどこからともなくフィルムは始まり、いつのまにか儚くもスクリーンは再びの闇に包まれて、映画の時間は終わる。そこで変るのは我々の方だ。もはや西成の町や、通天閣や、大阪城をかつてと同じようにみることは出来ないだろう。
ある土地、ここでは西成、というものを見事に活写したフィルムはないだろう。場所の記憶がここには刻み込まれている。が、西成は今でも大して変らぬ風景である(工事中の陸橋はおそらく阪神高速だと思うがこれによって、より薄暗さはましているのではないか)というのが皮肉なのか、むしろ素晴らしきことなのか。その西成が今も当時も変らぬ佇まいを見せているからか、はたまた「時代の空気」がどことなく今と似通っているからなのか、このフィルムの持つ現代性は、今の自分の問題としてしっくり馴染む。
芹明香をはじめとしたキャストがすばらしいことも、もう言わずもがななのだが、例えばあの血のように赤い太陽をと共に、突然目潰しのようにカラーパートに入ったフィルムが追いかける白痴の弟。その前のシークェンスで彼は死ぬな、ということは簡単に予想できるし、紐でいわえた鶏などの比喩なども極めて分かりやすく、ともすればかなり醜悪なシーンになりかねないものであるのだが、それがどうだろう。夢村四郎が素晴らしいのか、通天閣無人の商店街が素晴らしいのか、鶏のあの赤い赤い鶏冠や白い白い羽が素晴らしいのか、キャメラワークが素晴らしいのか、すべてが渾然一体となった化学反応としか言いようがなく、素晴らしい。
あのドヤで中庭を挟んで言葉を放ち合う、母と娘。母(花柳幻舟)の素晴らしさ。男から締め上げられ、「110番せい!」と言われ、流産し、窓から反吐を吐き、「やっぱり119番や!」と言われ、それを向いの棟から窓越しに娘が見詰め、「もう許したりぃ」と言う。この場面の素晴らしさも、もちろん女優が良いのだし、脚本が良いのだし、あの面白い形状をした建物が良いのだし、キャメラが良いのだが、そのすべての絡まり方が良いのであって、一個を良いといえばバラバラと崩れてしまいそうだ。一個でも良いところを言い損なうことが恐ろしくなるような場面の数々。だから本当は黙り込むか、もっと気合を入れて、目から血が出るほど観なおさなければならない。初見は圧倒されて、あっという間に終わってしまった。だが、映画とはこういうものだ。(ま、もちろんまた観るが)
すべてが詩のように昇華されて行くので、煙突跡で、萩原朔美宮下順子(彼女を一番美しく撮れるのは田中登であると思う)とそのヒモと共に、ガスの詰ったダッチワイフで爆死しても、その悲劇性は、えもいわれぬ詩情とちょっぴりのユーモアによって、昇華される。それは、あの煙突跡から頼りなげにまいあがった白煙の非人情さゆえであろうか。
瓶を使ってコンドームを再生している、オッサンの佇まいがこのフィルムの軸になっているような気がした。だからこそ芹明香はこのフィルムの最期で、彼の傍らで、絶望感を通り越した、一種の晴れやかさをもって、クルクルとまわるのだろう。
原題の『受胎告知』。ロビーで流れてたインタビュービデオで監督が語っていた。本当はこのタイトルにしたかった、と。確かに良いタイトルだ。このドヤ街の物語の神話性と、芹明香の最終的には母性的になって行くさま。もしこの後、弟の子を妊娠していたとしても、それはこの街の子としか言いようのない、神話性をやはり持つだろう。