井土紀州『ラザロ-LAZARUS- 蒼ざめたる馬/複製の廃墟/朝日のあたる家』日本、2007年 @ポレポレ東中野

何というか、「映画」というものがたちあがってくる瞬間を私は目撃したようだ。主演の東美伽が小暮マユミになっていく瞬間と言うべきか。パンフをパラパラめくっていて誰かがそのようなことを言及してたように思うが、あの『女囚さそり』シリーズにおける梶芽衣子=松島ナミのような、役者と役柄の区別が曖昧になってゆくとういうか、それは観る側の潜在的な欲望、要請に寄るものだとは思うのだが、その両者の区別が無意味になってゆくような、東美伽=マユミがスクリーン上に生きる、まさに「怪物」として生を得ているという現象、そのような感覚、を確かに得た。
これは、このマユミの物語であると共に、この映画そのものが徐々に沸き立つようにたちあがってくる流れ、過程そのものが物語のようである。序盤のたどたどしいキャメラワークや演技がだんだんと様になっていくのを誰もが感じると思う。そして、第三部の「朝日のあたる家」が始まると、まるでこの映画そのものが「技術」を発見したかのような、ある種の技術としての躍動を得ていることに感動する。だが、後にしてみればこの序盤のたどたどしさと後半にいくにつれ発現する成熟との比較がただ否定的に響くだけではないことにも気付く。このあらゆる面での成熟が、この主演の東美伽=マユミの充実ぶりと呼応しているのが何ともダイナミックで、映画的で、感動的だ。
私の中にマユミはいる。ある種の原理主義的な、純粋さを求めるような、100が無理だと判断すると、0もしくはマイナス100を求めてしまうような感覚が凄く理解できてしまって、それはそれでどうかと思うのだが、それをこのフィルムを通して客観視できたこともよかったかもしれない。このフィルムは決して私(達)に怒れ!と命じてはいないと受け取ったし、マユミの感情も怒りという単純なものに帰することは難しいだろう。それはどうしても私が怒りうたうことに疑問を感じているのと、単純に「敵」というものを想定することの誤謬と危うさを感じているからだし、「朝日のあたる家」で妹が何に怒って良いのか分からないという怒りがもっとも理解できるかもしれない。だが、怒りとは(少し)違うやりかたで、私も闘わなければならないということは確かだろう。